罪の在り処

橘 弥久莉

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第二章:僕たちの罪

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 男が自ら出頭した理由は、「殺した被害者
の幽霊に日々悩まされている」というもの
で、『開かずの扉』とも言われる再審の扉が
あっけなく開かれる。

 再審では警察による強引かつ恣意的な捜査
が浮き彫りとなり、自白強要、目撃者による
虚偽の証言、唯一の証拠とされた血痕の信憑
性、さらに日本刀を購入するときに発行され
る『銃砲刀剣類登録証』を、警察が意図的に
破棄していたことが判明したことから、比賀
尚之は無罪判決を言い渡された。

 父親が雪冤※を果たしたのは息子の死から
三年後のことで、この事件は権力構造の問題
を露わにした平成の冤罪事件として、いまも
一部の者の心に深く刻まれている。

※無実の罪を晴らし、身の潔白を明らかにす
ること。


◇◇◇


 「武弘が死ななきゃならない理由は、どこ
にもなかった」

  絞り出した声は低く、涙に濡れていた。

 「なのに何ひとつ出来なかった僕は、苦し
んでいると知りながら助けられなかった僕は
……追い詰めた皆と同じ、ただの傍観者だ」

 温かな滴が頬を伝ってゆく。それが涙なの
だとわかっていても、止めることは叶わなか
った。僕は洟を啜りながら、病室の白い壁を
睨む。とめどなく流れる涙がかつての親友の
面影を揺らし、向けられる悲壮な眼差しに
堪らず唇を噛み締めた。


――やがて、ある筈のない感触が右手に蘇る。


 ざわざわと指に絡みながら蘇る、あの日の
感触。僕は恐れるようにその手に視線を移す。

 少しクセのある黒い髪が指の隙間にあって、
早く時間を巻き戻せと、武弘が死ぬ前に戻せ
と訴えかけていた。

 「……ごめん、ちょっと」

 僕は涙に頬を濡らしたまま、震える手を点
滴棒に伸ばした。この部屋に洗面台はなく、
儀式をするなら廊下の向こうまで歩かなけれ
ばならない。けれど、伸ばした手は無機質な
それを掴む前に、温かな手に包まれてしまう。

 どきりとして傍らにいる彼女を見やれば、
どこまでもやさしい瞳が待っていた。

 「大丈夫。髪なんて、どこにもありません」

 言って、彼女が僕の手を両手で包み込む。
 その温もりに僕は息を呑み彼女を見つめる。

 「それに卜部さんは傍観者なんかじゃない。
必死に武弘さんを守ろうとしたのに、周囲の
大人がそれを赦さなかっただけ。社会の不条
理に巻き込まれてしまっただけです。だから
もう、自分を責めないでください。この手が
わたしを救ってくれた。卜部さんが命がけで
助けてくれたから、わたしはいまここにいる。
生きていたいと、心から思えたんです」


――この手がわたしを救ってくれた。


 その言葉に、ざわざわと指の隙間にあった
感触が少しずつ存在を消してゆく。僕は彼女
に握られたままの手を見つめ、ひとつ息を吐
いた。そうして目を瞑り、ゆっくりと頷いた。
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