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【弓月と和臣】
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----カタカタカタ----
タイトル、著者、分類、受入番号を入力して、じっと画面を
見つめる。入力ミスがないか確認して「次へ」のボタンを
押した時だった。
「ねぇ、手伝おっか?」
背後で声がして振り返ると、腰をかがめた田辺さんが
心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「もう定時過ぎてるよ。今日はカウンター混んだからね」
そう言われて、中央の時計を見る。いつの間にか定時を過ぎた
時計の長い針は、すでに5時45分を少し回っていた。
貸出・返却で混み合うカウンターのヘルプに入りながら、
作業をするのは当たり前のことで、仕事が遅くなった言い訳
にはならない。田辺さんに甘えるわけにもいかなかった。
「ありがとう。でも、あと少しで終わりそうだから」
僕は小さく首を振る。すると、田辺さんは、そう?と、
肩をすくめて見せた。
「あと少しで終わるようにも見えないけど……
遠野君、頑張り屋さんだもんね。じゃあ、お先に」
「うん。お疲れさま」
ひらりと、手をあげて身を翻した彼女に、僕も軽く手を
振って見送った。
----パチン
誰もいなくなった広いフロアーの、カウンター以外の
証明が消える。僕は大きく伸びをして、椅子の背もたれに
体を預けた。残業なんて、いつぶりだろう?
タイムカードの表示はいつだって5:32や
5:38で、6時を過ぎることはあまりなかった。
ポケットに入れたままの、小さな便箋を取り出す。
結局、伝えたい言葉はまだ見つかっていない。
「今日は、無理だな」
花屋の閉店は、確か6時30分と書いてあった。
大急ぎで終わらせて走ったとしても、間に合わない。
僕は、山積みの本を横目で見て体を起こした。
今日は渡せない。その事に、内心ほっとしている
自分がいて、苦笑いする。
明日は公休で、いつもなら、ただ時間を持て余す
だけの、休日が待っている。だから、明日行こう。
明日こそは、花屋に行って、そして……
僕はまた、便箋をポケットにしまってパソコンに
向かった。まだ昨日出会ったばかりの、その人の
顔を思い出す。じん、と胸が痺れて、僕は頬を緩めた。
生まれて初めて、僕は大きな一歩を踏み出すことを
心に決めていた。
築28年になる古めのアパートは、
僕が高校を出た時からずっと住んでいる。
最寄りの駅までは、商店街を歩いて12分。
電車には乗らず踏切を超えてさらに15分。
線路沿いを歩くと図書館が見えてくる。
街のつくりは小さく、けして賑やかではないけれど、
僕はこの街が気に入っていた。
少し遠いように感じる徒歩27分の通勤も、
人々のささやかな生活が身近に感じられたし、
ただ自転車で通り過ぎてしまうのは惜しく思えて、
雨の日も雪の日も、僕はいつも同じ風景の中を歩いた。
その、いつもと同じ、いつもの風景が、
今日は少しだけ違って見える。
パタパタと焼き鳥を焼く、おじさんの団扇の音も、
薬局の前で立ち話をする、おばさんたちの笑い声も、
なぜか、僕の背中を押してくれているように聞こえた。
商店街を進む僕の足取りは軽やかで、胸のポケット
には、小さく折り畳んだ、あの便箋が入っている。
いつも買っていた花屋の前を通り過ぎ、一昨日の夜、
何となく歩いた脇道を、今日は確かな目的を持って
歩き始めた。大通りの信号を渡って店の前に立つ。
大きな窓ガラスの向こうに彼女の姿を見つけて、
僕の心臓はどきりと跳ねた。
あの夜と同じ、白いシャツに黒いエプロン姿の彼女が、
陽だまりの中でじっと花を眺めている。綺麗だった。
僕は店に入れぬまま、しばらく立ち尽くしてしまった。
タイトル、著者、分類、受入番号を入力して、じっと画面を
見つめる。入力ミスがないか確認して「次へ」のボタンを
押した時だった。
「ねぇ、手伝おっか?」
背後で声がして振り返ると、腰をかがめた田辺さんが
心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「もう定時過ぎてるよ。今日はカウンター混んだからね」
そう言われて、中央の時計を見る。いつの間にか定時を過ぎた
時計の長い針は、すでに5時45分を少し回っていた。
貸出・返却で混み合うカウンターのヘルプに入りながら、
作業をするのは当たり前のことで、仕事が遅くなった言い訳
にはならない。田辺さんに甘えるわけにもいかなかった。
「ありがとう。でも、あと少しで終わりそうだから」
僕は小さく首を振る。すると、田辺さんは、そう?と、
肩をすくめて見せた。
「あと少しで終わるようにも見えないけど……
遠野君、頑張り屋さんだもんね。じゃあ、お先に」
「うん。お疲れさま」
ひらりと、手をあげて身を翻した彼女に、僕も軽く手を
振って見送った。
----パチン
誰もいなくなった広いフロアーの、カウンター以外の
証明が消える。僕は大きく伸びをして、椅子の背もたれに
体を預けた。残業なんて、いつぶりだろう?
タイムカードの表示はいつだって5:32や
5:38で、6時を過ぎることはあまりなかった。
ポケットに入れたままの、小さな便箋を取り出す。
結局、伝えたい言葉はまだ見つかっていない。
「今日は、無理だな」
花屋の閉店は、確か6時30分と書いてあった。
大急ぎで終わらせて走ったとしても、間に合わない。
僕は、山積みの本を横目で見て体を起こした。
今日は渡せない。その事に、内心ほっとしている
自分がいて、苦笑いする。
明日は公休で、いつもなら、ただ時間を持て余す
だけの、休日が待っている。だから、明日行こう。
明日こそは、花屋に行って、そして……
僕はまた、便箋をポケットにしまってパソコンに
向かった。まだ昨日出会ったばかりの、その人の
顔を思い出す。じん、と胸が痺れて、僕は頬を緩めた。
生まれて初めて、僕は大きな一歩を踏み出すことを
心に決めていた。
築28年になる古めのアパートは、
僕が高校を出た時からずっと住んでいる。
最寄りの駅までは、商店街を歩いて12分。
電車には乗らず踏切を超えてさらに15分。
線路沿いを歩くと図書館が見えてくる。
街のつくりは小さく、けして賑やかではないけれど、
僕はこの街が気に入っていた。
少し遠いように感じる徒歩27分の通勤も、
人々のささやかな生活が身近に感じられたし、
ただ自転車で通り過ぎてしまうのは惜しく思えて、
雨の日も雪の日も、僕はいつも同じ風景の中を歩いた。
その、いつもと同じ、いつもの風景が、
今日は少しだけ違って見える。
パタパタと焼き鳥を焼く、おじさんの団扇の音も、
薬局の前で立ち話をする、おばさんたちの笑い声も、
なぜか、僕の背中を押してくれているように聞こえた。
商店街を進む僕の足取りは軽やかで、胸のポケット
には、小さく折り畳んだ、あの便箋が入っている。
いつも買っていた花屋の前を通り過ぎ、一昨日の夜、
何となく歩いた脇道を、今日は確かな目的を持って
歩き始めた。大通りの信号を渡って店の前に立つ。
大きな窓ガラスの向こうに彼女の姿を見つけて、
僕の心臓はどきりと跳ねた。
あの夜と同じ、白いシャツに黒いエプロン姿の彼女が、
陽だまりの中でじっと花を眺めている。綺麗だった。
僕は店に入れぬまま、しばらく立ち尽くしてしまった。
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