Diary ~あなたに会いたい~ 

橘 弥久莉

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【Diary ~あなたに会いたい~】

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「だいぶ、顔色が良くなったな」

山積みのブックトラックの向こうから、突然、

近藤さんの声がして、僕は棚に伸ばしかけていた手を

止めた。数冊の書籍を手に振り返ると、近藤さんが

気遣うように僕を見上げている。僕はトントン、と

脚立を下りて、彼に頭を下げた。

「はい、お陰様で。あの、色々とご迷惑をかけて、

 すみませんでした」

「そんなことはいい。人間、不死身じゃないんだ。

 具合が悪いときは休む。しっかり治してから、

 また元気に働く。それがいい仕事をするための

 基本だからな」

黒縁メガネの奥の瞳を細めて、近藤さんが頷く。

僕は今まで知ることのなかった、彼の意外な一面に

触れ、内心、胸が温まるのを感じながら笑んだ。

結局、あの晩下がらなかった熱は40度まで上がり、

僕はそのまま2日間寝込んでしまった。冷蔵庫が空っぽ

だから、と、鍋焼きうどんを食べ終わった高田が、

買い出しをしておいてくれなかったら、もっと回復に

時間がかかっていたかもしれない。

高田がコンビニで買ってきてくれたバナナやヨーグルト、

冷凍のチャーハンや麺類は、どれも簡単に食べられる

ものばかりで、弱った躰にありがたかった。

「しっかり食べて、体調管理に気を付けます」

笑んだままでそう口にすると、近藤さんがいっそう

大きく頷く。

「食べることは大事だ。腹が膨れれば眠くもなるし、

 眠ればまた腹が減る。人間はメシさえしっかり

 食っていれば、自然に元気を取り戻せるように

 できているんだ」


------食べれば元気が出る。

という、あながち嘘とも言えない近藤さんの理屈に、

僕も頷いた。現に、食べることで回復したのは躰だけ

でなく、弓月のことですっかり塞ぎ込んでいた気持ち

も、何となくではあるけれど、前を向き始めていたからだ。

もう、真実からも、現実からも、逃げることはでき

ない。僕はこれから自分がどうしたいのか、考えて

答えを出さなければならないのだ。

「それが終わったら、カウンターへ戻ってくれ。

 今日はいつもより利用者が多いみたいだ」

「わかりました」

口早にそう言ってこの場を去ろうとする背中に

返事をすると、僕はまた脚立に脚をかけた。



それから数日間、僕は弓月のいない日常を、

ひとり淡々と過ごしていた。朝、起きて顔を洗い、

母の仏壇に手を合わせる。線香の香りが漂う中で

朝ごはんを食べて、歯を磨き、仕事に向かう。

陽の光に照らされた街の風景は何も変わらず、

僕の視界を通り過ぎていく。流れる時間も、

人々の息づかいも、何ひとつ変わらない。

弓月と出会う前の、僕の日常だった。


------不思議な感覚だった。


こうして生活いると、大した苦しみもなく、

今までの人生に戻れるような気がした。

なのに、ふとした瞬間、心の一部が足りないような、

どこかに大切なものを置き忘れてきたような

喪失感に襲われる。弓月の柔らかな声や温もりを

思い出すたびに、僕は目を閉じて胸の痛みに耐えた。

弓月のいない人生は、きっと、これから先も

こんな感じなのかもしれない。

平穏で、静かな日常が続き、時々、胸が痛む。

けれど、それ以上の苦しみや悲しみは何もなく、

幸せで心を満たすこともない。

もしかしたなら、またいつか、別の誰かと恋を

するのかもしれないけれど……

そう考える度に、弓月の顔が心に貼り付いて

消えなかった。
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