68 / 104
第六章:蛍の苦悩
67
しおりを挟む
そこには、少し寒そうにトレンチコートの襟を立てた、
黒のキャリーケースを手に引いた、榊専務が立っていた。
「……専務!?」
蛍里は、予期せぬ人物の登場に、思わず声をひっくり
返しながら、勢いよく立ち上がった。その驚きようが
可笑しかったのか、専務が目を細めくすりと笑う。
彼の笑顔を見るのは数日ぶりだなんて、そんなことを
思って、また切なさを思い出してしまった蛍里に近づくと、
彼はベンチに腰掛けた。
「こんな時間に、こんなところで何を?」
突っ立ったまま、自分を見下ろしている蛍里に専務が
訊く。それはこちらのセリフだと、思わずそう口にしそう
になりながらも、蛍里は「あの」と、混乱した頭で言葉
を探した。
「ちょっと……その、人と待ち合わせを。それより、
専務こそどうしてここに?」
どうしていま、このタイミングで彼がここに現れたのか?
ひとつの可能性を考えれば、どうしたって胸の鼓動は
大きく鳴って仕方ない。蛍里はごくりと唾を飲むと、
彼の一挙一動に目を見張った。専務が小首を傾げる。
「どうして……と訊かれてもね。僕はただ、出張帰りに
ここを通ったらあなたを見かけたので。こんな時間に
ひとりで何をしているのか、と思って声をかけただけです」
隣に座るよう、片手で蛍里に促しながら専務が言う。
蛍里は納得した、とは言い難い顔で彼の傍らに
置いてあるキャリーケースに目をやると、大人しく
ベンチに腰かけた。そうして、それとなく公園内の
時計に目をやった。いまは約束の10分前。
-----つまり、6時50分だ。
もう、いつ詩乃守人が現れてもおかしくない。
けれど、専務は川の水面に揺れる青い光を静かに
見つめている。蛍里はどうすることも出来ないまま、
同じ風景をじっと眺めた。
「あれから、滝田さんとは?」
不意に、専務が口を開いた。
送別会の夜の、あの出来事を訊いているのだろう。
蛍里は暗い顔をして俯くと、小さく首を振った。
「滝田くんとは、まだ……何も話してないんです」
その言葉に、ちら、と専務が自分を見たのがわかる。
けれど、蛍里は何となく彼の顔を見ることができずに、
俯いたまま言葉を続けた。
「わたし、狡いのかもしれません。滝田くんの気持ちを
受け止められないって思うくせに、彼に嫌われてしまう
のが悲しくて、自分からは何も言えないんです。ただ、
こうして待っていれば彼の方から笑いかけてくれるん
じゃないか、とか都合のいいこと考えたりして……」
なぜ、自分はこんなことを専務に話しているのだろう?
蛍里は心の内を吐き出してしまってから、恥ずかしく
なって、彼の様子を窺った。専務は前を向いたままで、
口元に淡い笑みを浮かべている。
黒のキャリーケースを手に引いた、榊専務が立っていた。
「……専務!?」
蛍里は、予期せぬ人物の登場に、思わず声をひっくり
返しながら、勢いよく立ち上がった。その驚きようが
可笑しかったのか、専務が目を細めくすりと笑う。
彼の笑顔を見るのは数日ぶりだなんて、そんなことを
思って、また切なさを思い出してしまった蛍里に近づくと、
彼はベンチに腰掛けた。
「こんな時間に、こんなところで何を?」
突っ立ったまま、自分を見下ろしている蛍里に専務が
訊く。それはこちらのセリフだと、思わずそう口にしそう
になりながらも、蛍里は「あの」と、混乱した頭で言葉
を探した。
「ちょっと……その、人と待ち合わせを。それより、
専務こそどうしてここに?」
どうしていま、このタイミングで彼がここに現れたのか?
ひとつの可能性を考えれば、どうしたって胸の鼓動は
大きく鳴って仕方ない。蛍里はごくりと唾を飲むと、
彼の一挙一動に目を見張った。専務が小首を傾げる。
「どうして……と訊かれてもね。僕はただ、出張帰りに
ここを通ったらあなたを見かけたので。こんな時間に
ひとりで何をしているのか、と思って声をかけただけです」
隣に座るよう、片手で蛍里に促しながら専務が言う。
蛍里は納得した、とは言い難い顔で彼の傍らに
置いてあるキャリーケースに目をやると、大人しく
ベンチに腰かけた。そうして、それとなく公園内の
時計に目をやった。いまは約束の10分前。
-----つまり、6時50分だ。
もう、いつ詩乃守人が現れてもおかしくない。
けれど、専務は川の水面に揺れる青い光を静かに
見つめている。蛍里はどうすることも出来ないまま、
同じ風景をじっと眺めた。
「あれから、滝田さんとは?」
不意に、専務が口を開いた。
送別会の夜の、あの出来事を訊いているのだろう。
蛍里は暗い顔をして俯くと、小さく首を振った。
「滝田くんとは、まだ……何も話してないんです」
その言葉に、ちら、と専務が自分を見たのがわかる。
けれど、蛍里は何となく彼の顔を見ることができずに、
俯いたまま言葉を続けた。
「わたし、狡いのかもしれません。滝田くんの気持ちを
受け止められないって思うくせに、彼に嫌われてしまう
のが悲しくて、自分からは何も言えないんです。ただ、
こうして待っていれば彼の方から笑いかけてくれるん
じゃないか、とか都合のいいこと考えたりして……」
なぜ、自分はこんなことを専務に話しているのだろう?
蛍里は心の内を吐き出してしまってから、恥ずかしく
なって、彼の様子を窺った。専務は前を向いたままで、
口元に淡い笑みを浮かべている。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
103
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる