上 下
102 / 104
最終章:恋に焦がれて鳴く蝉よりも

101

しおりを挟む
じゃり、と背後で人の気配がして、蛍里は思わず肩を震わせた。

そして、固唾をのむ。どきどきと胸は鳴って、振り返りたいのに、

どうしてか振り返ることが出来ない。蛍里は体を硬くしたまま、

じっと耳を澄ました。




「……ようやく会えましたね」

耳に聴こえたのは、ずっと待ち焦がれていた、その人の声だった。

蛍里は大きく目を見開き、振り返る。そこには、あの日、暖かな

採光の中で出会った、差し出したハンカチに深い笑みを見せた、

『彼』がいた。

「専務っ!!」

蛍里は驚きに両手で口を塞ぎ、立ち上がった。彼を見つめる。

一年ぶりに見る彼は、間違いなくなのに、スーツを着て

いないだけで別人のようにも見える。そのことに戸惑い、ただただ

自分を見つめている蛍里に、彼は微笑みながら近づいた。

「僕はもう、あなたの上司ではありません」

そう言って、蛍里に手を伸ばす。温かな指が前髪を梳き、

確かめるように、そっと蛍里の頬に触れる。

「やっと会えた。このままずっと、あなたが来てくれなかったら

どうしようかと……焦り始めていたところです」

肩を竦めながらそう言った彼に、蛍里は目を細め、首を振る。

本当は、訊きたいことが山ほどあった。なのに、言葉が喉に

詰まって声になってくれない。どうして突然居なくなったのか。

なんで詩乃守人のサイトが消えてしまったのか。そして、自分が

あの本を見つけられなかったらどうするつもりだったのか……。

そんな言葉が胸に溢れて、溢れて、言葉の代わりに涙が溢れて

しまいそうだった。けれど、そんなことよりも先に伝えたいことが

あった。それは二つのことだ。蛍里は絞り出すようにして、言った。

「……好きです。ほんとうに、会いたかった」

震える声で、嘘偽りのないその想いを口にした蛍里に、彼は

目を細める。そして小さく頷くと、手を伸ばし、蛍里を抱き寄せた。

強く自分を抱く腕の中で、ようやく、これが夢ではないのだと、

蛍里は信じることが出来た。蛍里の耳に「愛している」と、彼の

掠れた声が届く。その言葉に応えるように、蛍里は顔を上げた。

彼の顔が近づく気配を感じ、目を閉じる。やがて重ねられた

唇は深く、深く、会えなかった時間を埋めるように幾度も重なり、

蛍里は苦しくなる息に彼の服を握りしめた。

「……っは」

唇が離れた瞬間、蛍里は膨らみきった肺を開放するように、長く息を

吐いた。彼がくすりと笑う。そうして、しっとりと湿った蛍里の唇を、

愛おしそうに親指で拭った。蛍里は何だか恥ずかしくなって、彼から

視線を逸らしてしまった。やっと再会を果たし、想いを通じたいま、

彼は恋人として自分に触れている。そう思えば、何だか胸の奥が

こそばゆい。
しおりを挟む

処理中です...