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最終章:恋に焦がれて鳴く蝉よりも

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「……どうして、何も言わずに行ってしまったんですか」

二人の間に流れる沈黙を断ち切るように、拗ねた声で蛍里が言う。

彼は少し困ったように眉を寄せ、首を傾げた。

「待っていてくれとは、言えなかったので。必死だったんです。

あなたが何の迷いもなく、僕の手を取ることが出来るように、

僕は新たな道を進む必要があった。あの状況で、僕があなたを

迎えれば、少なからずあなたは負い目を感じていたでしょうから。

僕が専務の職を辞したのは自分のせいだ、と」

彼の言葉に、向けられる眼差しに、すべてが自分を想ってのこと

だったと、知らされる。そして、そうと知ってしまえば、これ以上

責めることも出来ない。だから蛍里は、その他のことを訊ねた。

「じゃあ、なんであのサイトは消えてしまったんですか?

それに、もしわたしがあの本を読まなかったら……」



-----ずっと会えないまま、彼は自分を諦めていたのだろうか。



何となく、その疑念が胸に残って消えない。けれど、そんな蛍里

の想いを見透かしたように、彼は腕の中の恋人に微笑みかける。

「出版の関係があって、あのサイトは残すことが出来なかった

んです。そのことでは、あなたに寂しい思いをさせてしまった。

でも、あなたが僕の本を見つけるという確信はありました。

あなたほどの読書好きなら、定期的に書店に足を運ぶだろうし、

新刊もチェックするに違いない、と。それに、こう言っては何ですが、

僕は物書きをやっているせいか、不確実なことにこそ運命や奇跡

という力が働くものなのだと、信じているんです。現に、あなたは

こうしてまた奇跡を起こしてくれた」



-----『奇跡』。



あの本の中でも、たびたび彼が記していた、その言葉。

蛍里は今まで、そういった目に見えないものの力を、信じたことなど

なかったけれど………

今にして思えば、偶然、彼の勤める会社に自分が就職し再会した

ことも、奇跡としか言いようのない確率なのかも知れない。

そして今も、自分は彼の書いた物語に導かれ、この場所にいる。

彼の言うように『奇跡』という力がなければ、幾度もの偶然を重ね、

再会を果たすことは叶わなかっただろう。

「奇跡を信じていたから、ここでわたしを待つことが出来たんですね」

蛍里は青く光り輝く、川の流れに目を向ける。さわさわと、川の

せせらぎに耳を澄ませば、彼の掌がゆるく、優しく、蛍里の髪を

撫でてくれる。


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