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第七章:燃ゆる想いを 箏のしらべに

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 作曲というほど大それたものではないが、
吹く風が揺らす葉の音や小鳥のさえずり、
時折り大地を濡らす雨音。それらを感じるま
ま絃を弾きながら曲に変えてゆくのは愉しく、
たった独りで過ごす時間も苦にならなかった。

 「ならば名を決めぬか?こんな素晴らしい
曲に名がないままでは、後の世に残すことも
出来ぬじゃろう?」

 右京が指を絡めたままで体を起こす。

 その提案に微笑を浮かべ、「そうですね」
と、開け放たれた広縁の向こうに目をやった。

 耳を澄ませば、ピーチュル、ピーチュル、
と、どこからか雲雀の鳴き声が聞こえてくる。


――大空を舞う、春告げ鳥のそれ。


 どこまでも続く蒼穹を、一羽の雲雀が優雅
に飛んでいる。

 「……蒼穹の……ひばり。蒼穹のひばりな
ど、いかがでしょう?」

 「蒼穹のひばりか。良い名じゃな。この曲
にぴったりじゃ」

 二人が笑みを交わした瞬間、すぅ、とその
光景が白んで消えた。

 そうしてまた別の場面がスクリーンに映し
出される。

 視界の先には、すっかり見飽きてしまった
屋久杉の天井と、悲痛な面持ちで自分を見つ
める愛しい人の顔。

 「……天音」

 その声に意識を呼び戻されたように笑みを
向ければ、握られていた手に力が込められた。

 「人の生は短く、時代の流れは遅く。何か
を成し遂げるには、あまりに時間が足りのう
御座いました」

 疾うの昔に瑞々しさを失った手を、それで
も愛おしそうに握り締め、右京が頬を寄せる。

 出会った時から何ひとつ変わらない彼の姿
は眩しく、麗しく。流す涙さえも美しい。

 「箏や尺八から紡ぎ出される美しい音色は、
未だ貴族だけのもの。多くの民に届けたいと
願ってまいりましたが、願うだけでは何も変
えることは出来ませんでした。だから、どう
か……」

 自分が去ったあとも、ずっとこの世に在り
続けるであろう夫に、願いを託す。

 右京は流れ出る涙を妻の手で拭うようにし
ながら、頷いた。

 「わかった。儂が必ず、主の箏の音を世に
広める。心が洗われるような美しい箏の音を
人々に伝え、師となって絃を弾く愉しみを民
に教えよう。だから天音、儂らは永遠に一緒
じゃ。儂の箏の音は、主の箏の音。儂が箏を
弾き続ける限り、永遠に傍を離れるでないぞ。
よいな?」

 温かな涙が滑り落ちて、枕を濡らす。

 永遠の別れの瞬間に『永遠』を誓う夫は、
信じているのだろう。いつかきっと魂は巡り、
二人が再会できるのだということを。

 肉体は滅んでも、妻の魂が自分の元を離れ
ることは、永遠にないのだということを。

 たとえ二人を引き裂く時が千年を超えよう
とも、その想いは決して潰えることはない。

 「……あい、わかりました」

 耳に届く鼓動が弱まり、意識が薄れていっ
ても、不思議と恐ろしくはなかった。

 揺るぎない愛の誓いの前に『死』への恐怖
が消えてゆく。

 「……必ずや、右京さまのお傍に」

 そう口にした瞬間、視界が淡い光に包まれ
た。けれど心臓が鼓動を止めても、手を握る
夫の温もりだけは、いつまでも消えなかった。
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