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最終章後編
五章-2
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トラストンが祖父から受け継いだ店に戻って来たとき、銃撃を受けてから一ヶ月半ほど経った午前十時だった。
店自体は、警備隊が周辺の巡回を増やしていたこともあってか、窃盗などの被害はなかった。しかし営業を再開するに当たっては、問題が山積みだった。
クリスティーナに付き添われたトラストンが店舗の中に入ると、細かい砂埃が舞った。
手を小さく振って砂埃を散らしながら、クリスティーナはトラストンに、明るく笑みを向けた。
「一ヶ月以上も留守にしていたんですもの。仕方ありませんね」
「これ……どうしたもの……かな」
呆然と立ち尽くすトラストンに、クリスティーナはシルクの手袋を外して、近くにあった布巾を手にした。
「先ずは、お掃除ですわね。商品だけでなく、床やカウンターも綺麗にしませんと」
「ああ……そうですね」
ぎこちなく微笑みながら、トラストンは周囲を見回し、空の水桶を手にした。そのまま外に出ようとするところで、クリスティーナは慌てて声をかけた。
「トト――っ! 井戸の場所は……」
「いや……その程度なら、わか――ります」
「そう? 病み上がりなんですから、無理はしないで下さいね」
「はい。ありがとうございます」
トラストンが外に出て行くと、クリスティーナの表情に陰りが生まれた。
軍病院での入院中、トラストンの言動が前とは異なることが多々あった。軍医の診察――推測が大半であったが――によれば、瀕死の状態から生還した影響で、脳に異変が起きた可能性があるらしい。
この異変が、記憶障害を引き起こしているのでは――と診断した軍医は、神妙な顔で「しばらくしてから、記憶が戻る可能性もあります」とクリスティーナやマーカスに告げたのだ。
(記憶障害……もし――いいえ、今はその可能性に賭けなくては)
一緒に時を過ごしていれば、ふとした弾みで記憶が戻るかもしれない。最初は些細なことでもいい。
クリスティーナは一人になると、トラストンの記憶が戻ることを静かに祈った。
顔を上げると、カウンターの中にあったハタキと雑巾を取り出した。
「さて――わたくしも、お掃除をしなくては」
掃除などの家事は、得意だ。
ハタキを手にしたクリスティーナは、店の奥から商品の掃除を始めた。
水を汲んできたトラストンが帰ってくると、二人で店の中の掃除を続けた。昼前には商品の半分ほどだが、売り物にできる程度に体裁を整えることができた。
「そろそろ、お昼御飯の準備をしてきますわね」
「あ――そうですか。もう、そんな時間……」
トラストンが売り物の柱時計を見たとき、店の玄関が勢いよく開いた。
「あの、すいません。今日はお休みで――」
「あ、いや……申し訳ない、クリスティーナ嬢。客で来たわけじゃないんだ」
ピシッと整った背広姿のマーカスは革袋を手に、にこやかに微笑みながら店の中に入ってきた。
水拭きを終えた棚から離れたトラストンが、マーカスに近寄った。
「マーカスさん、どうしたんですか?」
「ああ、トト。約束の品を持って来たんだ。ええっと……報酬やら、売り上げの補填やら――かな」
「ああ……そうですか」
革袋を受け取ったトラストンが、辺りを見回した。カウンターまで戻ると、何かを探すように、しきりに首を動かした。
「どこだ――ったか?」
「なにを探しているんです?」
「いや――その、帳簿を」
困ったような顔をするトラストンに、クリスティーナは戸惑ったように視線を彷徨わせた。しかしすぐに、強引な笑みを浮かべると、カウンターへと手を伸ばし、トラストンの目の前にあった冊子を掴んだ。
「これですわ」
「あ――ありがとうございます」
トラストンは表情を強ばらせながら、帳簿を受け取った。カウンターの奥側に帳簿と革袋を置くと、マーカスに向き直った。
「これは、約束通り……の金額?」
「ああ。そのつもりだよ。銀貨で七枚。約束には無かったけど、報酬も足してある」
「それは……ありがとうございます」
トラストンは少し悩んでから、再び帳簿を引っ張り出した。記入した最後のページまで捲ると、ペンを手に報酬の金額を書き始めた。
その覚束ない手の下にある文字を覗き込んで、マーカスは小さく笑った。
トラストンの字には、少し癖がある。数字の三と七には上変の右に尖った部分があるのだが、そこが少し丸っぽくなっているのだ。
まるで子どもみたいな文字なの――と、クリスティーナが話していたことを、マーカスは思い出していた。
マーカスが見ている前で、トラストンが七パルクと記入した。その文字を目の当たりにして、マーカスの顔から笑みが消えた。
七の文字にある癖は、確かにある。しかし全体的に見れば、その文字は歪んでおり、まるで見本を見ながら書いた、幼子の文字のようだ。
「ト――」
マーカスはトラストンへ声をかけようとして、やめた。近くにいるクリスティーナが、どこか不安そうに自分の一挙一動を注視していたからだ。
(記憶障害の影響……いや、可能性でしかないか)
マーカスが帳簿から目を外した直後、トラストンは帳簿を閉じた。
少しだけ目を閉じてから、マーカスは頭に浮かんだ疑念を心の中で隔離した。今は些細なことで、とやかく言わない方がいいと判断したのだ。
「トト、僕はこれで引き上げようと思ったんだけど……店も大変そうだし。簡単な掃除なら、手伝うけど?」
「そう――なんだ? ああ、それは助かります。ええっと……それでは」
カウンターの奥においてあった雑巾を引っ張り出すと、マーカスに手渡した。
「埃を落とした商品に、軽く水拭きを」
「ああ。わかったよ」
「あの……わたくしは、お昼御飯の準備をして参りますわ。お二人で、掃除の続きをできまして?」
クリスティーナはマーカスを気にしながら、確認するような口調でトラストンへと声をかけた。
その声は、病み上がりを心配しているものではない。悪戯仲間にボロをださないよう、口裏合わせをしている様子に似ていた。
(なにかに気付いているのか?)
そう思いながらも、マーカスは問い詰めることはしなかった。
トラストンの入院中、クリスティーナはずっと憔悴しきっている様子だった。今もトラストンが生きて側にいる事実で、辛うじて理性を保っているようなものだ。
下手な干渉をすれば、クリスティーナの精神が壊れてしまうかもしれない――マーカスは、そう考えていた。
だから戯けたように肩を竦めつつ、苦笑いで応じた。
「掃除くらい、男二人でなんとかなります。トトもそう思うだろ?」
「ああ――まあ、その通りです」
トラストンが頷くと、クリスティーナは微笑みながら頷いた。
「それでは、お任せしましたわ。材料も買いに行かなければ――」
クリスティーナが顎に指先を添えたとき、再び店の玄関が開いた。
「トト、クリス――いるんだろ?」
金髪の青年のクレストンと、同じく金髪を左右に分けてリボンで編んだサーシャが、店の中に入って来た。
それに少し遅れて、水色のドレスを着た幼い少女、エイヴがひょっこりと顔を覗かせた。
「トト――」
小さく手を振るエイヴに、トラストンは小さく微笑んだ。
「エイヴ――こっちへ」
どこか固い口調のトラストンに違和感を覚えたようだが、手招きされたことは素直に嬉しいらしい。
トコトコと店の中に入ると、トラストンへと駆け寄っていった。
「トト、怪我をしたんだって? 大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ。もう、ほとんど癒えた」
「良かったねぇ。無茶しちゃだめだよぉ?」
どこで覚えたのか、エイヴの芝居がかった口調に、周囲から笑みが漏れた。
苦笑を浮かべたままのクレストンが、トラストンへと手を挙げた。しかし、トラストンは怪訝そうな顔をしただけで、なんの反応も返さない。
それを見て、クリスティーナはハッとした顔をした。
「あのね、クレストン。トトは今、記憶に問題があって……」
「そのことは聞いてるけどさ。でもエイヴは覚えていて、俺は覚えて無いなんてさ」
「ねぇねぇ、あたしは? あたしのことは覚えてる?」
自分の鼻頭に指を添える金髪の少女に、トラストンは少し考えてから「サーシャ、だったと、思います」と答えた。
「当たり当たりっ!」
ぴょんぴょんと喜びを露わにするサーシャの横で、クレストンは憮然とした顔をした。
「なんで俺だけ覚えて無いんだよ……おい、トト。おまえのことは、明日からムッツリ野郎って呼ぶからな」
「いや、たまたまそうなっただけで――」
「そんな言い訳が通用するわけねーだろ!」
喚くクレストンに、トラストンとマーカスを除いた周囲から笑いが漏れた。
マーカスは一瞬だけ渋い顔をしたが、その表情はすぐに笑みへと変わった。
「ええっと、すまない。掃除を手伝おうとしたんだけど、一つ仕事を忘れていた。悪いけど、これでお暇させてもらうよ」
皆と別れを告げたマーカスが店を出ると、早足に黒い馬車へと近づいた。
客車に乗ると、部下である女性に真顔で告げた。
「全員をこの街に集めてくれ。至急、調べたいことができた」
「わかりました。対象はなんです?」
部下の女性からの質問に、マーカスは僅かに辛そうな顔をした。
「対象は、トラストン・ドーベル。古物商の主人で、ローウェル伯爵の孫娘である、クリスティーナの恋人だ」
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本作を読んで頂き、誠にありがとうございます。
わたなべ ゆたか です。
訳あって、三人称でお送りしております。とはいえ大した理由ではないと、書いている当人は思っています。そんなわけで、ご安心下さいませ。
こういうとき、個人的な感情を取っ払える諜報機関員は、良い意味で容赦ないですね。状況判断はもとより、対処についても。
ああ、書けることが限定的すぎて、なにも書けない(泣
少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
次回もよろしくお願いします!
応援ありがとうございます!
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