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最終章後編

五章-4

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 部下の報告を聞いて、マーカスはテーブルの上で唸った。
 ドラグルヘッドにある宿の一室だ。そこそこ宿代も高価な部屋だけあって、調度類も質の良い品々で揃えてある。
 テーブルに備え付けの椅子に座っているマーカスの前には、三人の部下が並んでいた。
 赤毛の尾行が気付かれたことも頭痛の原因だったが、本題はトラストンが行った先である。


「南にある倉庫街……そこまでしか追えなかったのか」


「……ええ。なにせ、灯りのある倉庫なんか、一つもなかったんです。尾行に気付かれないようにしてたので、距離を詰めれませんでしたし」


「まあ、それは明日の朝、虱潰しで調べればいいでしょう」


 金髪の意見に頷きながらも、マーカスは浮かない顔を消せなかった。
 もしトラストンが本当に回復をしていて、何者かに知恵を貸していた場合、証拠を掴むのは至難になるだろう。
 逆に、トラストンが実は回復をしておらず、別の何かが憑いている場合――それはそれで、最悪だ。
 なぜなら、トラストンの友人である幻獣の王、ガランがそれを許しているということだからだ。
 頭を掻き毟りたい衝動に駆られながら、マーカスは部下たちを下がらせた。


〝やけに投げやりね、マーカス?〟


 テーブルの上に、手の平サイズのヴォラが姿を現した。
 マーカスは溜息を吐きながら、ヴォラへと疲れ切った目を向けた。


「夜に倉庫街へ行くトラストン。しかも、字や言動は以前のトラストンとは別物としか思えない。こういう現状を、君はどう思う?」


「どうって……別に、あの子が夜に出歩いたって、関係ないでしょ? なにか気になるの?」


「なるさ。トラストンが別人なら、身内に間諜――内通者がいるのと同じだ。しかも、強い味方が一人減るのも辛いところだね。クリスティーナ嬢にも協力を願って、トトの言動について確認をしたいところだけど……」


 マーカスの呟きに、ヴォラは呆れたように首を振った。


「やめなさい。すぐに他人を利用したがるのは、あなたの悪い癖よ。それにクリスティーナって子は、トラストンが別人とか言われたら狂ったように泣くか、烈火の如く怒るかのどちらかになりそうじゃない?」


「だからって、放っておくことはできないだろ? エキドアのことだってあるし……」


「それをどうにかするのは、あなたの仕事じゃなくて? あの子たちの仕事ではないんじゃないかしら」


「御正論、痛み入るよ。申し訳ない気持ちはあるが、エキドアの野望を食い止めるためには、どうしても彼らの協力が必要だ。僕らだけでは、手に余る」


 マーカスの意見に、ヴォラは肩を竦めた。


「……そうね。それも正論だわね」


「そうだ。だからこそ、トラストンの正体を突き止めなければならないんだ。最悪は……彼を拘束して尋問、ヴォラにも手伝ってもらて、彼の状態を確認する必要もある。そのときには、ガランの協力を仰ぐことも考えなくては」


 マーカスの意見を聞いて、ヴォラは静かに首を振った。


「無駄よ。トラストンを拘束なんかしたら、あの堅物は絶対にマーカスの味方にはならないからね」

   *

 夜、ローウェル伯爵の屋敷に戻ったクリスティーナは、衣装棚の扉にある姿見の前で、真紅のドレスを身体に当てていた。
 ベッドの上には、真紅のリボンも並べている。
 この二つの品は、クリスティーナがトラストンと始めて会ったときに、身につけていたものだ。
 そして、前髪――。


「前みたいに伸ばすまで、どれだけかかるかしら」


 トラストンが今の髪型を気にいてくれていることは、クリスティーナも知っていた。しかし今のトラストンは、そのことすら覚えていなかった。


(先生も記憶を取り戻すには、周囲の人の根気も必要って仰有ってましたし)


 不安の塊を見ないようにして、クリスティーナは衣装棚の扉を閉じた。
 明日着ていくドレスにリボン、コルセット、そして色を合わせた下着にヒールの靴――それらを棚の上に並べている途中で、部屋のドアがノックされた。
             
「どなた?」


「クレストンと、エイヴだ」


 女性の部屋を訪問するにしては、夜の十時過ぎというのは少し遅い。それに、こんな時間にクレストンはともかく、エイヴが起きているのも珍しい。
 クリスティーナはおっとりと首を傾げながら、ドアの鍵を開けた。


 廊下には、どことなく険しい顔をしたクレストンと、表情を曇らせたエイヴがいた。
 エイヴは寝間着に子供用のガウンを羽織っていたが、クレストンは昼間と同じ格好のままだ。


「こんな時間にすまない。少しいいか?」


「ええ……いいですわ」


 二人を中に入れたクリスティーナは、クレストンに椅子を勧めると、自分はエイヴとベッドに腰掛けた。


「それで、なんの御用かしら?」


「いや……それなんだが」


 いつになく歯切れの悪いクレストンは、エイヴと視線を交差させてから、意を決したように表情を引き締めた。


「今日、トトの店に行ったとき、あいつの言動に違和感を覚えたんだ。記憶……障害だっけ? その影響かもな……って思ってたんだけど。そうしたらエイヴが俺のところに来て、トトがトトじゃないみたいだって言ってきてさ。おまえのところに、一緒に来て欲しいっていうから、連れてきたんだけど……」


 クレストンの説明を聞いて、クリスティーナは横にいたエイヴに目を向けた。
 ずっと俯いていたエイヴは、クリスティーナを上目遣いの視線を向けながら、辿々しい口調で話し始めた。


「どこが、どうって……言えないの。ただ、トトはいつもの歩き方じゃなかった気がするし……喋っているときもね、エイヴのことをちゃんと知らない気がしたの」


「あら、どうして? だってトトは、エイヴには挨拶が出来てましたわよ?」


 店にクレストンやエイヴが訪れたとき、トラストンはクレストンの名前はすぐに出なかったのに、エイヴには名前を呼んで出迎えていた。
 クレストンもそのことは覚えているのか、少し苦い顔をして話を聞いていた。
 しかし、エイヴは頷きながら、指先を忙しく動かしていた。正確に説明ができないのは幼いこともあるが、子どもながらの直感で気付いたことだからだ。


「あの……ね。声を聞いたあとは、エイヴのことをすぐ解るみたいなんだけど……無言で袖とか引っ張ったとき、なんだか……知らない人を見るような目をするの」


「そんなこと……」


 クリスティーナは顔を強ばらせたまま、イヤイヤをするように首を小刻みに振った。
 まだ口紅の残っている唇を軽く湿らせながら、頭の中で必死に理由を考え始めた。
 今、トラストンが記憶障害というのはクリスティーナにとって、一つの拠り所だ。
 この支えが失われれば、クリスティーナの心は簡単に瓦解するだろう。それを心理の奥底で理解しているからこそ、本能的な防御行動によって、トラストンが記憶障害だということを二人に納得させようとしているのだ。
 浅い呼吸を繰り返しながら、クリスティーナは無理矢理な笑みを浮かべた。


「それは……トトは記憶障害ですもの。時折、記憶がうまく……その、思い出せなくことだってありますわ」


「エイヴの声は覚えてるのに、顔は知らないの?」


「それは……そういうことではないの。時々、そうなってしまうこともあると……」


「それじゃあ、クリスティーナのことも忘れたりしてるのか?」


 クレストンから不意に問いかけられ、クリスティーナは言葉を途切れさせた。
 トラストンが意識を回復してから、クリスティーナのことを忘れたことはない。そのことも、クリスティーナが希望を抱いている点だ。
 クリスティーナが黙ってしまうと、クレストンはやや視線を逸らしながら、躊躇いがちに言葉を続けた。


「それに……だ。トラストンの記憶障害が治るって言ってるわりに、どうしてクリスティーナは今にも泣きそうな目をしてるんだよ」


「え――?」


 表情を失ったクリスティーナの中で、不安の塊が大きくなった。ここ最近、鏡で自分の目を見た記憶が無い。
 動悸が激しくなっていくのを感じながら、視線を避けるように俯いたクリスティーナは、膝の上で左右の拳を固く握り締めた。


「すいません……少々疲れてますので、今日のお話はここまででお願いします」


「いや、でもこれ、大切な――」


「お願いですから、ここまでにしてっ!!」


 今まで――クリスティーナが怒鳴り声をあげたことなど、皆無に等しい。
 珍しい怒声にクレストンが驚いているのに気付いたクリスティーナは、我に返ったように頭を下げた。


「すいません……でも、本当に疲れてるみたいなんです。今日は、ここまでにして下さい」


「あ、ああ……」


 エイヴを連れたクレストンが部屋から出て行くと、独りになったクリスティーナは顔を両手で覆った。


「どうしたら……みんな、トトを……信じてない」


 クレストンやエイヴ、それに――きっとマーカスも、トラストンが別人格になっているようだと疑っている。


(わたくしが……トトを護らなければ)


 クリスティーナは決意を胸に立ち上がると、部屋にある貴金属をかき集め始めた。

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本作を読んで頂き、誠にありがとうございます!

わたなべ ゆたか です。

次回は間話です。やっと引きを消化できる回となります。その予定です。

記憶喪失って、色々と調べてみると記憶を失っているという認識はないみたいですね。すべての記憶がなくなるか、一部なのかは人それぞれ……っぽいですが。

……本当に記憶喪失なら、って話ですが。

少しでも楽しんで頂けたら幸いです。

次回もよろしくお願いします!
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