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僕と妻の話⑤
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「ああ、そうですか、それが悲しくて?」
それだけにしては些か落胆が過ぎるようにも感じた。
例えどれだけ彼女が両親に愛されて大切にせいちょうしてきたとはいえ、この歳で居住地が離れることを泣くほど悲しがったりするものだろうか?
取り出したマドレーヌはいつも彼女が作るものよりすこしだけ甘くて、いつも丁寧な焦がしバターの香りが先に来るのに、今日は先に蜂蜜の香りが鼻を抜けた。
ああ、そうか、実家の。これは義母のマドレーヌか、と合点がいって、スウェットの薄い胸ポケットからカードを取り出してテーブルに置いた。
彼女は何度も湯呑みにくちをつけながら、
父親が俺の上司ではなくなること、
離婚してくれて構わないと言うことをゆっくりと話した。
"大変なお気遣いをいただきました"という言い回しが、たまらなく彼女っぽくて、可愛くて、目眩がするほど憎らしかった。
眼鏡を外して目頭を強く揉む。
多大な誤解を解かなければ、彼女はここを出ていってしまうのかもしれない。
このマンションは元は義父の持ち物なので、
俺が出て行くのが道理なんだけど、彼女の優しさが、
それを許さないような気がした。
それでも、俺がここを出て、この家で彼女が
他の男と出会って愛を育む様を想像すると吐き気がする。
その時のこの部屋は、今よりもっとあたたかで、愛に溢れるのかもしれない。
2人並んでベッドに入り、今は俺の足元で眠るあの暖かな毛玉は、2人の間で眠ったりするんだろう。
急にコロが裏切り者に思えてきて、足元に擦り寄っているのに気がつかないふりをした。
「私が、上司に気を遣って君と結婚したと、そう思っているということですか。」
「はあ」
何だそ返事、可愛いな。
どうしても高校生の頃のイメージが抜けなくて、触れるのも躊躇われたから、こんな年上の男から自分の気持ちを押し付けられるのが気の毒で、口説くのもすっ飛ばして結婚してしまったのを後悔した。
「年下だと思って気を遣っていたのがいけなかったのかな。
本気で行くべきだった?」
思わせぶりな言い方に反吐が出る。
彼女は大きな目をくりくりと見開いて、こちらをじっと見ている。
いつも、じっと目を見つめる子だった。そのきらきらと輝く目を覗き返すだけで、俺はもう何も言えなくなってしまうのに。
もう我慢がならなくて、立ち上がってずっと湯呑みに触れている指先を掬った。手のひらにごく軽く重なった
細い指は、あの指輪を買った時想像したよりずっと細くて、つるりとなめらかだった。
妻はじっと俺の手に乗せられている自分の手を見ている。
まず、誤解を丁寧に解きほぐすところから始めないといけない。
義父に連れられて行ったコンサート、あの舞台上の君に一目惚れしたこと。
義父は別に直属の上司じゃないからそこまで気を遣う間柄ではないこと、君の家にすぐ会いに行きたかったけど、義父に招かれなかったこと。
ようやく招かれたあの日、緊張して上手く話せなかったこと。
じっと俺の目を見つめる目は大きくゆらめいて、
目玉が溢れるのを心配しなければならないほどだ。
それが溢れないようにじっと見ていると、小刻みに二度瞬きした妻は、軽く俯いて、
「あ、あの、ごめんなさい。顔が近い。」
と消えそうな声で呟いた。
それだけにしては些か落胆が過ぎるようにも感じた。
例えどれだけ彼女が両親に愛されて大切にせいちょうしてきたとはいえ、この歳で居住地が離れることを泣くほど悲しがったりするものだろうか?
取り出したマドレーヌはいつも彼女が作るものよりすこしだけ甘くて、いつも丁寧な焦がしバターの香りが先に来るのに、今日は先に蜂蜜の香りが鼻を抜けた。
ああ、そうか、実家の。これは義母のマドレーヌか、と合点がいって、スウェットの薄い胸ポケットからカードを取り出してテーブルに置いた。
彼女は何度も湯呑みにくちをつけながら、
父親が俺の上司ではなくなること、
離婚してくれて構わないと言うことをゆっくりと話した。
"大変なお気遣いをいただきました"という言い回しが、たまらなく彼女っぽくて、可愛くて、目眩がするほど憎らしかった。
眼鏡を外して目頭を強く揉む。
多大な誤解を解かなければ、彼女はここを出ていってしまうのかもしれない。
このマンションは元は義父の持ち物なので、
俺が出て行くのが道理なんだけど、彼女の優しさが、
それを許さないような気がした。
それでも、俺がここを出て、この家で彼女が
他の男と出会って愛を育む様を想像すると吐き気がする。
その時のこの部屋は、今よりもっとあたたかで、愛に溢れるのかもしれない。
2人並んでベッドに入り、今は俺の足元で眠るあの暖かな毛玉は、2人の間で眠ったりするんだろう。
急にコロが裏切り者に思えてきて、足元に擦り寄っているのに気がつかないふりをした。
「私が、上司に気を遣って君と結婚したと、そう思っているということですか。」
「はあ」
何だそ返事、可愛いな。
どうしても高校生の頃のイメージが抜けなくて、触れるのも躊躇われたから、こんな年上の男から自分の気持ちを押し付けられるのが気の毒で、口説くのもすっ飛ばして結婚してしまったのを後悔した。
「年下だと思って気を遣っていたのがいけなかったのかな。
本気で行くべきだった?」
思わせぶりな言い方に反吐が出る。
彼女は大きな目をくりくりと見開いて、こちらをじっと見ている。
いつも、じっと目を見つめる子だった。そのきらきらと輝く目を覗き返すだけで、俺はもう何も言えなくなってしまうのに。
もう我慢がならなくて、立ち上がってずっと湯呑みに触れている指先を掬った。手のひらにごく軽く重なった
細い指は、あの指輪を買った時想像したよりずっと細くて、つるりとなめらかだった。
妻はじっと俺の手に乗せられている自分の手を見ている。
まず、誤解を丁寧に解きほぐすところから始めないといけない。
義父に連れられて行ったコンサート、あの舞台上の君に一目惚れしたこと。
義父は別に直属の上司じゃないからそこまで気を遣う間柄ではないこと、君の家にすぐ会いに行きたかったけど、義父に招かれなかったこと。
ようやく招かれたあの日、緊張して上手く話せなかったこと。
じっと俺の目を見つめる目は大きくゆらめいて、
目玉が溢れるのを心配しなければならないほどだ。
それが溢れないようにじっと見ていると、小刻みに二度瞬きした妻は、軽く俯いて、
「あ、あの、ごめんなさい。顔が近い。」
と消えそうな声で呟いた。
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