太陽と海の帰る場所

杏西モジコ

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太陽と海の帰る場所7

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 勤続四年目にもなれば、仕事は殆ど慣れてくる。面倒を見られる側だったのが、もう後輩の指導側に立つ程にだ。そんな頃、奏弥は後輩を引連れて、新しいプロジェクトに参加する事となったのだ。
「久々にでかいの受けたんだって?」
「うん、そうなんだよ。当分忙しいから、残業の日は先に寝てて」
 奏弥は眉を寄せて言った。本当は一緒にいる時間が減って、家に帰っても話せないのは寂しいが、真人も同じく後輩を引き連れての外回りが増えたのだ、帰ってきたら身体を休めてほしかった。
「でも俺、奏弥の匂いですぐ起きちゃうからなぁ」
 真人はそう言うと、奏弥の首筋に顔を近づけ、小さく鼻を鳴らす。
「なにそれ、ヘンタイ」
「奏弥専門のね」
「言ってろし」
 くすくすと笑い合って、甘ったるいキスをする。角度を変えて深く深く愛された。

 その次の日から、奏弥はプロジェクトの準備に追われ、毎日終電までオフィスに残ることが増えた。もちろん後輩も一緒だ。初めて参加するプロジェクトに張り切っており、出勤早々はまだしも、昼休みも奏弥にべったりだった。
 だからなのか、他の部署に所属する真人にはそれが面白いとは思わなかったらしい。
「お前、いくらなんでも帰り遅すぎじゃねぇ?」
「え?」
 もう何日目なのか分からないが、その日も日付けを超えての帰宅だった。部屋に入って、寝室に着替えを取りに行くと、真人が眠らずにベッドの上に胡座をかいている。眉間に寄った皺はそう簡単に解れそうにない。
「ごめん……。今、資料作りが立て込んでて」
「毎日そればっかだな。もう四年目だろ、進捗遅すぎ。いつからそんな仕事出来なくなったわけ?」
 棘のある言い方に、奏弥の眉はぴくんと動く。言い分は分かるが、資料作りは新入社員との共同作業だ。彼の進め方にまだスピードがないのは百も承知だし、これから徐々に慣らしていく。自分だってそうだったし、真人だってそうだったはずだ。
「そんな言い方しなくても……」
 奏弥は真人の横に腰掛ける。状況を諭してほしくて、彼を見つめた。伸ばして握った手は振り解かれ、返ってきたのは嫌なほど鋭い視線と舌打ちだった。
「……さっさと風呂入って寝ろ」
 絞り出したようなそのセリフは、真人なりの優しさだった。少なくとも奏弥はそう感じられた。
その日からは約束されたはずの「おかえり」がなくなってしまった。



 プロジェクトが佳境に入った頃だった。泊まりがけでの出張も増え、奏弥は家に帰らないことが増えた。最初の頃は返ってきたメッセージも、次第に既読が付いたらマシだと思うようになった。ただ、その既読マークはだんだんとつかなくなっていく。一時期は一週間丸々メッセージに既読マークがつかない事があった。
 営業部の真人も多少このプロジェクトに関わっており、彼が相手企業との仲介を行うこともあった。
忙しいのは俺だけじゃない、と自分に言い聞かせる。真人もきっと目まぐるしい毎日に疲弊して、メッセージを読むのがやっとなのだ。
 もうすぐこの企画も終わる。そしたら、たくさん真人を甘えさせて、自分も甘えるんだ。
 そう思う事が奏弥のやる気となって、一層仕事に打ち込んだ。そのうちに、彼と一緒に住む部屋の合鍵は、見るだけで力に変わる御守りのような存在になっていた。

 やがて、プロジェクトが軌道に乗り、通常勤務に変わる頃の事だった。
 毎日のように続いていた会議も、残業してまで準備した資料ももう手元を離れた。あとは相手企業との折り合いをつけて進めていけば問題もなさそうだと確信したし、何より早く真人と一緒に休日を謳歌したかった。
 今まで我慢もしたし、沢山させた。今日は早めに帰って真人の好きなものを作ってやろう。
 ソワソワして、仕事中も上の空になりそうだ。やっとゆっくり会える、久々に抱きついて、キスをして、一緒に好きなお酒を飲みたい。
 終業時刻になると、奏弥はいつもより雑に後片付けをして、オフィスから飛び出した。
 電車に乗り込み、最寄駅で降りると、早速買い出しに向かう。あれもこれもと買い込んで、財布の中身も空にした。
 鼻歌交じりで、自宅のマンションへ向かう。歩き慣れた道のはずなのに、その日は全く違う道に見えた。普段気にも留めないコンビニの新しいキャンペーンポスターですら、新鮮に感じたし、近所の一軒家に見えた新しい植木鉢にも目が止まった。
 そういえば、この鍵を使うのも二週間振りだ……。
 奏弥は出張続きでなかなか使えなかった大事な鍵をキーケースから取り出した。エントランスを入り、エレベーターに乗り込む。鼻歌を歌いながら、鍵を差し込んだ。
 ガチャンと鍵の外れる音がし、奏弥は「ただいま」と緊張気味な上擦った声を出した。
 しかし、玄関に入った途端、目に入った見知らぬミュールに動きが止まった。
「え…………?」
 心臓がばくん、と大きな音を立てる。明らかな女性物の靴に、目を見開いた。
 誰の…………物?
 あ、あぁ、きっと……真人の姉か妹が遊びに来ているんだ。兄弟がいた話とかはした事ないが、俺を驚かせようとしているんだろう……。きっと、いや……絶対。
 お願いだから…………!
 口の中がカラカラに渇き、手が震える。まだそうとは決まっていないのに、冷や汗が止まらない。
 大丈夫、大丈夫だから……!
 そう祈りながら、革靴を脱いでリビングへと向かった。



「全部、綺麗さっぱり忘れられれば良かったんだ……全部、俺のせいだし……っ」
 嗚咽を漏らし、肩を震わせる。太洋が目の前にいようが出てきてしまうもの止められない。あの日、自分の住む部屋で見知らぬ女性と抱き合う真人が居た。思い出すだけでみっともないぐらいに涙が溢れ出る。手の甲で一生懸命に拭っても追いつかない。
 真人には姉も妹もいなかった。彼を一人にさせて、勝手に安心しきっていた自分がいけなかった。繋ぎ止められなかった自分が悪い。
 そんな彼の横にいたのは、新入社員として営業部に所属となった女性社員だった。
『悪いな、奏弥。お前と俺は結局、生産性のない関係でしかなかったんだよ』
 真人は最後に吐き捨てるようにそう言うと、奏弥を家から追い出した。そっからの記憶はほぼ曖昧だ。ショックでその場に立ち尽くしたのは覚えていたが、何をどうしたかなんてほとんど記憶にない。
 満たされていたものがポッカリと抜け落ちて、何も考えられなかった。同時に、何もかもが信じられなくなった。ショックで全部記憶から消えれば良かったのに、真人の捨て台詞はずっと胸の奥深くに突き刺ささり、歩くたびに咽せるほどの痛みを帯びた。
 こんなにも恋が苦しいとは思わなかった。誰かを好きになるのは簡単で、その気持ちを捨て去るのは更に難しいことだと思っていたのに、呆気なく捨て去られた。
 だから奏弥も全てを捨てようと決めてしまった。
「だからね、俺……全部捨てに来たんだ。だから海のある場所を選んだの。全部、綺麗に飲み込んでくれそうだから……」
 それがどういう意味かを奏弥ははっきりとは言わない。奏弥の垂れ下がった目が、暗がりの浜辺でもはっきりと見えて太洋の手が小さく震えた。
 すると、太洋はその手を強く握り締め、立ち上がって奏弥の腕をグッと強く、自分の胸に引き寄せた。
「…………っ!」
 勢いで太洋の胸に顔をぶつけ、涙で太洋の服を滲ませる。
「た、太洋くん……?」
「あの……。嫌だったら突き放して貰って良いですから」
「……なに、同情でもした?」
 カラカラに渇いた口で、力無く笑いながら奏弥が言う。虚勢を張ったところで何もないだろう。太洋が首を横に振ったのを見て、奏弥はゆっくり肩の力を抜いた。
「すみません……。でも、このまま手を離したら、朝海さん、自分のことも捨てるんじゃないかって……。そんなの、俺が許さない……」
 耳元で低い声が響いて、背中が跳ねた。ゾクリとして背筋が張る。久しぶりに誰かに身を任せた。その温かさと彼の言葉の心強さに鼻の奥がジンと痛む。涙をもう一度拭おうと少し身体を離そうとすると、太洋が奏弥の頬に手を添えた。次第に太洋の胸の奥から爆速で鳴り続ける心臓音が聞こえ、奏弥は身体中が熱くなるのを感じた。
「……朝海さん。俺を、あなたの合鍵代わりにしてください……」
 奏弥の持っていた懐中電灯の光が、地面を照らしながら揺れた。
「太洋くんが……俺の合鍵?」
 すると、頭上で小さな声で「はい」と太洋が答えた。
「ここにいる間は……、今だけは理由をつけて全部俺に委ねてくれて構いません。どこに行こうが、あなたが遅くなっても迎えに行くし、帰りも待つ。おはようもお帰りも全部最初に伝えます。朝海さんが望むなら、一日中一緒にいたって良いです」
 どちらの心音かもう分からないほど鼓動が重なる。
「そんなこと……無理だよ……」
 奏弥は震える声を抑えながら言った。
「太洋くんを縛るのは嫌だ……。利用なんて、もっとしたくないっ」
 こんな良い子を、自分だけのために置いておこうなんておこがましいにも程がある。
 それに太洋くんには、ずっと想ってくれている子だっている。俺が入るべきじゃないってそう思う。そう思うのに…………っ!
「無理じゃない、縛っていいです」
「だから、そんなことする理由が君には……!」
「俺、朝海さんのこと好きです」
 ひゅっと、喉が鳴った。
「は…………何言って」
 胸のあたりがざわつく。ゴクリと唾を飲み込んだ。
「初めて浜辺の掃除手伝ってくれた時から、ずっと気になってました。あなたの為なら無理なことなんてない」
「話が……飛びすぎだよ」
 太洋は奏弥の背中に腕を回すと、優しく抱きしめる。
「全然、飛んでません。俺にだって辛い過去があります。それを拭ったのは他でもないあなたです」
「俺が……?いつ?」
 奏弥はここへ来てからの数日間のことを思い出した。彼にしてもらったことは多いが、してあげたことはあっただろうか。
「……浜辺清掃、あれは元々幼馴染三人でやってたんですよ」
「君の、お父さんとじゃなくて……?」
 太洋はゆっくりと頷いた。
「はい。幼馴染と小学生の頃から毎朝、ずーっと。俺には幼馴染が鞠花の他にもう一人いて、汐田大輔ってやつなんですけどね。大輔と鞠花とは毎日一緒に居たんです。朝から晩まで。大輔は漁師の息子で、泳ぎも得意なやつで、海が大好きでした。そいつが、やろうって言い出したんですよね、浜辺清掃」
 初めて聞く名に、奏弥は黙り込む。
「高校最後の夏に大輔が居なくなったんです」
「居なく……なった?」
 抱きしめる力が少しだけ強くなったのを感じ、奏弥は心配そうに太洋を見上げた。目が慣れてきた暗闇で、彼が泣きそうな顔をしていたのが見え、思わず目を見開いた。

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