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君想う、心は開かずの箱のなか
第32話 祖父の想い
しおりを挟むしらじをのらきく のらみのもを じのにのきを
「この文章が、いろは歌をベースに作られていると仮定して。さあ! 縦に桜の句、横に紅葉の句を置いてみようじゃないか!」
歓喜の声に、満面の笑み。
対して、取り残される俺たち。
「ちょっと待て、天神。さっき、楓貴くんが詠んでくれた歌は四首だった。結局、どれを使うのか、説明しろ」
「ああ、そうか! そうだったね。すっかり忘れていたよ!」
悪びれる様子のない男は、白く筋張った手で、いろは歌から離れたところに四つの句を書いた。
をのへのさくら
もみじふみわけ
もみじのにしき
みねのもみじの
もみじなりけり
三ツ橋たちが読みやすいように、天神はくるりとノートを回転させる。
「暗号文と抜き出した句を比べてみてごらん」
全員が静かに和紙にある文字とノートを交互に観察する。
俺は逆さまに見ているせいか、どうにもひらがなを文字と認識しにくい。
それでも周囲にならって首を傾げていると、突如、咲工が声を上げた。
「わかった。使うのは、『紅葉の錦』だな?」
「素晴らしい!」
天神に褒められて、まんざらでもない顔をする彼に理桜が尋ねる。
「どうして分かったのよ?」
「んなの、じじいの文を見れば分かるだろ? 天神の話から、元の文は桜と紅葉の二首から組み上がってんのは分かったんだ。なのに、桜の句には暗号文にある、『し』も『き』も入ってねえ。なら、紅葉の句から『し』と『き』があるものを抜き出すしかないだろ。だよな?」
「素晴らしい推理力だね」
拍手をされる咲工は、鼻高々だ。
「『紅葉の錦』なのは分かったわ。でも、どうして桜が縦と分かるの?」
「それ、僕も不思議だった。何か理由でも?」
「簡単なことさ! 三ツ橋理桜くんの箱に描かれているのが枝垂れ桜だからだよ。枝垂れ桜は、桜が縦に下がっているからね」
「そういうことね」
納得する三人を前に天神は、いろは歌の上と右に新しく文字を書き足した。
をのへのさくら
も いろはにほへと
み ちりぬるをわか
じ よたれそつねな
の らむうゐのおく
に やまけふこえて
し あさきゆめみし
き ゑひもせすん
パンッと乾いた音が鳴る。
見れば天神は満面の笑みで、胸の前で手を合わせていた。
「さあ! 楽しい、楽しい解読の時間といこうじゃないか!」
三人が見やすいように、天神は再びノートを上下逆さまにして、両腕を開く。
キョトンとした顔からいち早く戻ってきたのは、咲工だった。
「二文字で、一文字になってんだよな。じゃあ、行と列が交わるところを読んでいけば良い。俺が桜、楓貴は紅葉な」
「じゃあ、私が読み上げて、平文をノートにメモをするわ」
理桜が暗号文の書かれた紙を持つ。
咲工はノート上にある桜の句を押さえ、真ん中に座る楓貴が紅葉の句に指を置いた。
「最初は、『しら』よ」
「……『し』だね」
丁寧な繰り返し作業。
一文字ずつ、言葉が現れる。
そんなに長い文章ではない。
最後の文字が読まれるまで、わずか数分。けれども、三人が協力をしながら平文へ直していくのは、なかなかに良い光景だった。
声が止まり、ボールペンの音も止まる。
解き明かされた言葉は、
『しよくん くるい たまえ』
だった。
「しよくん?」
不可解そうな顔をする双子に、楓貴が「もしかして、諸君ってことかな?」と呟く。
「え? お祖父様からのメッセージが、『諸君、狂いたまえ』ってことなの?」
「多分」
三人の目が一様に点となる。何とも言えぬ沈黙。
暫くして、咲工が堪えきれなくなったとばかりに吹き出した。
「孫に『狂え』って言うか、普通? 本当に、あのじじいは最高だな!」
「お祖父様らしいと言えばらしい、のかしら?」
「まあ、おじいちゃんも変わってるから……」
大笑する咲工につられるように、次第に理桜と楓貴の肩が揺れ、遂には三人とも笑い始めた。
「こんなに頑張って解いて、『狂え』かよ! 今、狂いそうだわ!」
「おじいちゃんって、そういうところがあるよね」
「そうなのよね。私が小学校の頃にもね、」
三人は満ち足りた笑みを浮かべて、昔話に花が咲く。
少しして、彼らを嬉しそうに見ていた天神が音もなくスッと、立ち上がった。
「ここから先は、貴殿方とお祖父様との二十年分の思い出をたっぷりと語らい、楽しむのが一番の贈り物なのだろう! ゆえに、僕たちはここで失礼するよ」
ジャケットの内側から財布を取り出した天神は、千円札を二枚置くと、
「ああ、そうだ。これ以上の報酬は不要だよ。この素晴らしい贈り物を拝見できたことが報酬に値するからね! 心から感謝するよ。貴殿方とお祖父様に、祝福あれ!」
カーテンコールをする役者の如く、姿勢正しく、美しく。優雅にお辞儀をした。
呆気に取られる三人を残し、彼は白いフリル傘を手に、颯爽と舞台袖へと消えていく。俺も会釈して、天神の後を追う。
何故か、これが正解なのだという確信があった。
カランコロンという鐘の音が鳴る。「また、どうぞ」という店主の声は、いつも通りあたたかかった。
晴天の青は、少し黄みがかっている。グッと下がり始めた気温で、昼間でも少し肌寒い。
天神はレトロ・アヴェの軒下で大きな黒猫のように俺を待っていた。
「なんか面白い人たちだったな」
「そうだね。とても、素敵だった」
「ああ。でも、『諸君、狂いたまえ』が成人の祝いの言葉なんて、変わってるよな」
「そうかい? 僕は、非常にインテリジェンスのある御仁だと思ったけれどね」
「そうか? まあ、暗号を作るくらいだから、知性はあるんだろうけど」
俺の返答に、男は愉快そうに笑う。
「たしかに、あの暗号は実に楽しかった。でも、それだけじゃないのだよ。あの字変四十八というのは、上杉謙信公が使った暗号としても知られていてね」
「上杉謙信って、『敵に塩を送る』の語源となったことをした人だよな?」
「そのとおり。もっとも、最近の話では『敵に塩を送る』は作り話だったのではないかという説もあるけどね。それでも、上杉謙信公を語る上で、類い希なる武才や領地の統治繁栄、その信念は欠かせないだろうね。そして、明晰怜悧な公が本質を見抜き、義を重んじていたことも」
「随分と詳しいんだな」
「尊敬する偉人の一人だからね」
「ふーん?」
いまいち、天神が何を言いたいのか分からなかった。首を傾げる俺に、彼は穏やかに続ける。
「平文の『諸君、狂いたまえ』は、吉田松陰が彼の門下生に送ったと言われる言葉だね。もっとも言葉自体は意訳に近く、これも諸説ある。とはいえ、彼は二十九歳という若さでこの世を去ったにもかかわらず、今なお吉田松陰の思想や志は受け継がれている。
この二人の偉人に追随するかはさておき、彼らが大志を抱き、それを叶えるべく動いていたことには違いない。これからを担う若者に贈る言葉としては、これほど好ましいものはないと思わないかい?」
天神は眩しそうに目を細めて、微笑む。あくまでも、それは憶測で、推測で、空論だと言わんばかりに。だが、それも一つの真実だと、俺には思えてならなかった。
「たしかに、凄いおじいさんだな」
「そうだろう?」
天神がにんまりと笑う。それがなんとなく悔しくて、俺は片方だけ口角を上げる。
「でも、そういうおまえも若者だろう?」
ヘーゼルの瞳が、ぱちくりと瞬く。それから、「間違いない」と、あどけなく笑った天神は、どこか少年のようにも見えるのだった。
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