しがない物書きの日記帳

時結莉黒

文字の大きさ
上 下
21 / 26

8/4 人が死ぬということ

しおりを挟む
 皆さん、こんばんは。時結ときゆい 莉黒りくろです。災害級の暑さ、いかがお過ごしでしょうか。

 さて、今回は題の通り「人が死ぬということ」について話してみたいと思います。少し長くなるかもしれませんが、お付き合いして頂けると嬉しいです。

 先日、私の祖母が亡くなりました。あまり詳しいことは言えませんが、享年は90過ぎでした。
 7月中頃から「危ない」と連絡を受け土日はなるべく帰るようにしていました。最後には間に合いませんでしたが、その日のうちに顔を見ることが出来ました。

 彼女は可愛い笑顔で笑い、昔は社交ダンスをたしなんでおました。彼女の作る、少しベチャッとした醤油味のチャーハンも大好きでした。
 
 ここ何年かは老人ホームのお世話になり、最後まで看取りをしていただきました。施設の方もとてもいい方々でここで最後を迎えられたことは彼女にとっても安心できたと思います。

  私の気持ちとしては、落ち着いている、と思います。事前に危ないということを聞いていたというのと、歳も高齢だったから覚悟はしていたから、という理由からだと分析します。(理屈っぽいですね)

 身体の処置をしていただいた後に、お化粧もして頂き、「美人さんになってねぇ」と親戚一同笑っていました。

 「死」というのは、誰にでも平等に訪れます。それは、人生を全うしてから、道半ばそれぞれであるとはおもいます。それを笑顔で迎えられるか、そうでないかは人それぞれ、状況や関係性など様々な要因があるでしょう。

 「死」というのは、「眠る」ことと同義だと、考えました。「安らかに眠る」と言われるように、彼女も恐く寝ているだけなのでしょう。「輪廻転生」や「死後の世界」のことは詳しくよく分かりませんが、きっと普通の人より長く寝るだけなのでしょう。次に起きた時は、きっと清々しく、目新しいものに囲まれるのではないでしょうか。

 「死」というのは、「忘れられたら本当の死」であると考えました。これもよく言うことだと思います。彼女の子どもたち(私の親世代)も若くはありません。子どもたちが亡くなれば、彼女を覚えている人も少なくなるでしょう。それは私たち世代からも同じです。


 なんとなく、思いついたまま駄文を連ねました。
 「生と死」と言うのは永遠に考え続けるべきことなのでしょう。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

では、今日はこの辺で。
しおりを挟む

処理中です...