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愛のある言葉
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夕方になり、キッチンからは香ばしい匂いが漂い始めていた。
フライパンの上で音を立てる油、まな板を叩く軽快なリズム。
美由紀はエプロン姿で手際よく夕食の準備を進めている。
「もうすぐできるから、二人とも手洗ってきて」
「はーい」
結衣が立ち上がり、純もそれに続いた。
ダイニングテーブルには、家庭的な料理が次々と並べられていく。
煮物、焼き魚、サラダ、そして湯気の立つ味噌汁。
「いただきます」
三人で声を揃えると、どこか懐かしい空気が流れた。
食事も半ばに差しかかった頃、美由紀が箸を止め、ふと思い出したように言った。
「あっ、そうそう。思い出したわ」
「なに?」
結衣が口いっぱいにご飯を頬張りながら聞く。
「“ぶん殴る”って言葉ね」
純は思わず姿勢を正した。
「ぶん殴るはね、針千本飲ますとか、お化けが出るよ、って言うのと一緒なの」
「え?」
結衣がきょとんとする。
「子供たちを怖がらせて、言うことを聞かせるための方法よ」
美由紀は何でもないことのように言った。
「実際に殴るわけないでしょ。
言葉だけの脅し」
「……ほんと?」
結衣は疑わしそうだ。
「本当よ」
美由紀は即答する。
「針千本飲ませたこともないし、お化けも呼んだことないし、
ましてや……」
一瞬、間を置いてから。
「結衣をぶん殴ったこともないわ」
純は思わず笑った。
「そう聞くと……確かに、そうですね」
「でしょ?」
美由紀は少し誇らしげだ。
「親だって必死だったのよ。
あの頃は今みたいに育児書もネットもなかったし」
「なるほどねぇ」
結衣は箸を動かしながら頷く。
「じゃあ、お母さんのぶん殴るは愛情表現だったってこと?」
「そういうことにしておきなさい」
美由紀は笑って受け流した。
夕食は終始、和やかな雰囲気で進んだ。
純は久しぶりに“家のごはん”を食べた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなる。
食後、片付けを手伝い、すっかり外が暗くなった頃。
二人は玄関で靴を履いた。
「今日はありがとう、美味しかったです」
純が丁寧に頭を下げる。
「いいのよ」
美由紀はにこやかに言った。
「また来なさいね」
そして、結衣を見てから、純に視線を移す。
「勿論、純ちゃんも一緒にね!」
「はい、ぜひ」
純が笑顔で答えた、その直後。
美由紀は、いたずらっぽく目を細めて続ける。
「来なかったら……」
一拍置いて。
「ぶん殴るわよ!」
冗談めかした口調に、結衣がすぐ反応する。
「出た!」
「またぶん殴るが聞けたね!」
純も思わず吹き出した。
「ふふ……本当に名言ですね」
「名言じゃないわよ!」
三人の笑い声が玄関に響く。
外に出ると、夜風が心地よかった。
振り返ると、美由紀が玄関先で手を振っている。
「気をつけて帰りなさい」
「はーい!」
結衣と純は声を揃えた。
車に乗り込む直前、結衣がぽつりと言う。
「ね、純」
「なに?」
「うちのお母さん、ちょっと変だけどさ」
「うん」
「悪くないでしょ?」
純は小さく頷いた。
「うん、とても」
心の奥で、確かにそう思っていた。
“ぶん殴る”という言葉さえ、温かく聞こえる不思議な夜だった。
フライパンの上で音を立てる油、まな板を叩く軽快なリズム。
美由紀はエプロン姿で手際よく夕食の準備を進めている。
「もうすぐできるから、二人とも手洗ってきて」
「はーい」
結衣が立ち上がり、純もそれに続いた。
ダイニングテーブルには、家庭的な料理が次々と並べられていく。
煮物、焼き魚、サラダ、そして湯気の立つ味噌汁。
「いただきます」
三人で声を揃えると、どこか懐かしい空気が流れた。
食事も半ばに差しかかった頃、美由紀が箸を止め、ふと思い出したように言った。
「あっ、そうそう。思い出したわ」
「なに?」
結衣が口いっぱいにご飯を頬張りながら聞く。
「“ぶん殴る”って言葉ね」
純は思わず姿勢を正した。
「ぶん殴るはね、針千本飲ますとか、お化けが出るよ、って言うのと一緒なの」
「え?」
結衣がきょとんとする。
「子供たちを怖がらせて、言うことを聞かせるための方法よ」
美由紀は何でもないことのように言った。
「実際に殴るわけないでしょ。
言葉だけの脅し」
「……ほんと?」
結衣は疑わしそうだ。
「本当よ」
美由紀は即答する。
「針千本飲ませたこともないし、お化けも呼んだことないし、
ましてや……」
一瞬、間を置いてから。
「結衣をぶん殴ったこともないわ」
純は思わず笑った。
「そう聞くと……確かに、そうですね」
「でしょ?」
美由紀は少し誇らしげだ。
「親だって必死だったのよ。
あの頃は今みたいに育児書もネットもなかったし」
「なるほどねぇ」
結衣は箸を動かしながら頷く。
「じゃあ、お母さんのぶん殴るは愛情表現だったってこと?」
「そういうことにしておきなさい」
美由紀は笑って受け流した。
夕食は終始、和やかな雰囲気で進んだ。
純は久しぶりに“家のごはん”を食べた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなる。
食後、片付けを手伝い、すっかり外が暗くなった頃。
二人は玄関で靴を履いた。
「今日はありがとう、美味しかったです」
純が丁寧に頭を下げる。
「いいのよ」
美由紀はにこやかに言った。
「また来なさいね」
そして、結衣を見てから、純に視線を移す。
「勿論、純ちゃんも一緒にね!」
「はい、ぜひ」
純が笑顔で答えた、その直後。
美由紀は、いたずらっぽく目を細めて続ける。
「来なかったら……」
一拍置いて。
「ぶん殴るわよ!」
冗談めかした口調に、結衣がすぐ反応する。
「出た!」
「またぶん殴るが聞けたね!」
純も思わず吹き出した。
「ふふ……本当に名言ですね」
「名言じゃないわよ!」
三人の笑い声が玄関に響く。
外に出ると、夜風が心地よかった。
振り返ると、美由紀が玄関先で手を振っている。
「気をつけて帰りなさい」
「はーい!」
結衣と純は声を揃えた。
車に乗り込む直前、結衣がぽつりと言う。
「ね、純」
「なに?」
「うちのお母さん、ちょっと変だけどさ」
「うん」
「悪くないでしょ?」
純は小さく頷いた。
「うん、とても」
心の奥で、確かにそう思っていた。
“ぶん殴る”という言葉さえ、温かく聞こえる不思議な夜だった。
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