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博美が「じゃあ、またね」と微笑んで帰っていったあと、香織はゆっくりと玄関の扉を閉めた。
カチリという鍵の音が、どこか遠くで響くように感じた。
部屋の中は、香織の知っていたものとはまるで違っていた。
間取りこそ同じはずなのに、インテリアの趣味も配置もまるで他人のものだった。
壁にかけられた時計は無骨でシンプル、棚にはスポーツ雑誌とメンズの香水。
クローゼットを開ければ、整然と並んだシャツとジーンズ、そしてネクタイ――すべてが「男」のものであり、香織のものではなかった。
その現実が、胸を重く締めつける。
「……これが、“斎藤隆司”の部屋……」
呟きながら、香織は壁に備え付けられた姿見の前に立った。
そこには当然、自分ではない“男の姿”が映っている。
広い肩幅、短く刈られた髪、鋭い輪郭――けれど、その目だけは今の香織そのものだった。
だが、次の瞬間。
鏡の表面が――波打った。
水面に石を投げたように、ゆっくりと揺れが広がり、その中心から“もう一人の自分”が現れた。
――香織の体をした、「斎藤隆司」。
その姿は明らかに混乱と怒り、そして恐怖を宿していた。
鏡の中の彼が、香織の方をじっと見つめて、口を開く。
「……お前、誰だ。」
香織は、静かに目を伏せたあと、言葉を選ぶように答えた。
「私は……斎藤香織。元々は、あなたの世界とは違う、別の世界にいた女。」
隆司は目を細めた。その顔に、怒りが走った。
「ふざけるな。俺は目が覚めたら、女の体になっていて、女の部屋で、化粧品に囲まれていたんだぞ。お前の――あんたの体でな。」
「わかってる。私も……気づいたら、あなたの体で、あなたの世界にいた。たぶん――私たちは、パラレルワールドで“身体”が入れ替わってしまった。」
鏡の中の隆司はしばらく黙っていた。
だが、やがてゆっくりと言った。
「……じゃあ、このままずっと、俺は女のままで、お前は男のままで生きるのか?」
香織は小さく首を横に振った。
「わからない。でも、こっちの世界では誰も私を“香織”と呼ばない。みんな“隆司”として接してくる。……だから私は、あなたの代わりに、あなたの人生を生きることにした。」
「勝手なことを……」
隆司が低く唸った。だがその声にも、微かな戸惑いが混じっていた。
「勝手だよ。でも、今すぐどうこうできるわけじゃない。あなたも、そっちで混乱してるはず。元に戻る方法があるのかすら、わからない。」
香織は鏡に向かって一歩近づいた。
「……あなたの恋人の博美さんは、優しい人だった。私がちょっとでも違和感を見せたら、すぐに気づいた。だから、私はもう、“斎藤隆司”として生きていく覚悟を決めた。」
鏡の中の隆司は、眉を寄せたまま黙って香織を見ていた。
その目の奥に、一瞬だけ、複雑な感情――理解と、憤りと、孤独とが交錯して見えた。
「俺は……」
隆司が何か言いかけたとき、鏡の水面が再び波紋を描き、像がかき消え始めた。
「待って、まだ――!」
香織が手を伸ばしたときには、すでにそこには、ただの静かな鏡だけが残っていた。
鏡の中の自分が、再びただの“男”の顔に戻っていた。
香織はその場にしばらく立ち尽くし、低く息を吐いた。
「……生きるしか、ないんだよね。あなたも、私も。」
彼女――いや、彼はそう呟いて、そっと鏡に背を向けた。
それが、本当の意味で「斎藤隆司」として生き始めた、最初の夜だった。
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カチリという鍵の音が、どこか遠くで響くように感じた。
部屋の中は、香織の知っていたものとはまるで違っていた。
間取りこそ同じはずなのに、インテリアの趣味も配置もまるで他人のものだった。
壁にかけられた時計は無骨でシンプル、棚にはスポーツ雑誌とメンズの香水。
クローゼットを開ければ、整然と並んだシャツとジーンズ、そしてネクタイ――すべてが「男」のものであり、香織のものではなかった。
その現実が、胸を重く締めつける。
「……これが、“斎藤隆司”の部屋……」
呟きながら、香織は壁に備え付けられた姿見の前に立った。
そこには当然、自分ではない“男の姿”が映っている。
広い肩幅、短く刈られた髪、鋭い輪郭――けれど、その目だけは今の香織そのものだった。
だが、次の瞬間。
鏡の表面が――波打った。
水面に石を投げたように、ゆっくりと揺れが広がり、その中心から“もう一人の自分”が現れた。
――香織の体をした、「斎藤隆司」。
その姿は明らかに混乱と怒り、そして恐怖を宿していた。
鏡の中の彼が、香織の方をじっと見つめて、口を開く。
「……お前、誰だ。」
香織は、静かに目を伏せたあと、言葉を選ぶように答えた。
「私は……斎藤香織。元々は、あなたの世界とは違う、別の世界にいた女。」
隆司は目を細めた。その顔に、怒りが走った。
「ふざけるな。俺は目が覚めたら、女の体になっていて、女の部屋で、化粧品に囲まれていたんだぞ。お前の――あんたの体でな。」
「わかってる。私も……気づいたら、あなたの体で、あなたの世界にいた。たぶん――私たちは、パラレルワールドで“身体”が入れ替わってしまった。」
鏡の中の隆司はしばらく黙っていた。
だが、やがてゆっくりと言った。
「……じゃあ、このままずっと、俺は女のままで、お前は男のままで生きるのか?」
香織は小さく首を横に振った。
「わからない。でも、こっちの世界では誰も私を“香織”と呼ばない。みんな“隆司”として接してくる。……だから私は、あなたの代わりに、あなたの人生を生きることにした。」
「勝手なことを……」
隆司が低く唸った。だがその声にも、微かな戸惑いが混じっていた。
「勝手だよ。でも、今すぐどうこうできるわけじゃない。あなたも、そっちで混乱してるはず。元に戻る方法があるのかすら、わからない。」
香織は鏡に向かって一歩近づいた。
「……あなたの恋人の博美さんは、優しい人だった。私がちょっとでも違和感を見せたら、すぐに気づいた。だから、私はもう、“斎藤隆司”として生きていく覚悟を決めた。」
鏡の中の隆司は、眉を寄せたまま黙って香織を見ていた。
その目の奥に、一瞬だけ、複雑な感情――理解と、憤りと、孤独とが交錯して見えた。
「俺は……」
隆司が何か言いかけたとき、鏡の水面が再び波紋を描き、像がかき消え始めた。
「待って、まだ――!」
香織が手を伸ばしたときには、すでにそこには、ただの静かな鏡だけが残っていた。
鏡の中の自分が、再びただの“男”の顔に戻っていた。
香織はその場にしばらく立ち尽くし、低く息を吐いた。
「……生きるしか、ないんだよね。あなたも、私も。」
彼女――いや、彼はそう呟いて、そっと鏡に背を向けた。
それが、本当の意味で「斎藤隆司」として生き始めた、最初の夜だった。
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