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安堵する和也
しおりを挟む部屋の鍵を回して、ドアを閉めた瞬間、和也はぐったりと壁にもたれかかった。リビングには誰もおらず、カーテンの隙間から差し込むオレンジ色の街灯が、静かに床を照らしていた。
手の中のスマホには、まだあのアプリ《Re\:Form》の通知が残っている。
> 【変身可能時間:残り 1時間43分】
> 次の変身までに、48時間の休止を推奨します。
和也は無言で画面を閉じ、スマホを机の上に投げ出した。
ソファに倒れこむように座り込み、しばらく天井を見つめたまま、深く息を吐いた。
足元の身体にじわりと重さが戻ってくる感覚。“かずは”だったときの軽やかさ、繊細な皮膚感覚が徐々に引いていく。やがて、和也はゆっくりと立ち上がり、鏡の前に立つ。
そこには、見慣れた男の自分がいた。
短めの黒髪、少し寝癖が残ったままの前髪、薄い口元。どこにでもいる大学生の顔。
けれど、どこか安心した気持ちもあった。久しぶりに「帰ってきた」と感じる自分の身体——それが、まだここにあることに。
「……やっぱ、これが俺なんだよな」
小さくつぶやいた声は、かずはのそれではなく、自分自身の声だった。低く、少しだるげで、でも正直な響きを持っていた。
和也は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで一口飲む。味気ない、ただの水分。けれど今は、その無味が心地よかった。
“かずは”として過ごした時間は、確かに輝いていた。誰かに必要とされる実感。誰かに褒められ、期待され、慕われるという感覚。それが嘘であっても、自分の中では確かに生きていた。
でも、その代償は小さくなかった。
結衣に嘘をついた。
陸に偽りの顔で好意を向けさせてしまった。
そして、自分自身の身体が、限界を訴えている。
「もう、戻れないかも」——その恐怖が、現実味を帯びていた。
ソファに再び腰を落とし、スマホを手に取り、何気なく《Re\:Form》の利用履歴を眺める。
そこには、変身した日付と時間、累積使用時間が正確に記録されていた。
(使いすぎてた……自分でも気づかないうちに)
和也は深く、長い呼吸をした。
「……どうすればいいんだろうな」
このまま“かずは”として生き続ければ、きっといつか戻れなくなる。
でも、すっぱりやめたとしても、陸に対して何の説明もできないまま、突然消えることになる。
結衣にも、ちゃんと向き合わなければならない。もう隠せる段階ではないと、和也自身が一番分かっていた。
彼はスマホのホーム画面をじっと見つめた。《Re\:Form》のアイコンが、どこか不気味な輝きを放っているように見えた。
——本当にこのアプリは、ただの“遊び”だったのか?
(もしかして……誰かを試すための道具なのかもしれない)
誰かを救うため?
それとも、誰かを破滅させるため?
いや、考えても仕方ない。問題は“今の自分”だ。
和也はスマホの電源を切り、充電コードから外して、引き出しの奥に静かにしまった。
今は、変身する必要なんてない。
それよりも、まず——
「……ちゃんと、自分の人生を生きる時間を、取り戻さないと」
その夜、和也は久しぶりに、夢を見なかった。
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