17 ジュウナナ

ガランドウ

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第1章 真木 陸斗

第2話 黒染

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 2013年1月 金沢

 JR金沢駅から徒歩で3~40分程にある兼六園。

 日本三名園として知られる日本庭園の茶店近くにある木製ベンチに、一人の女性がただ地面の一点を見つめたまま座っている。

 1月下旬だというのに上着も着ず、薄手のセーターにミモレ丈スカート姿は季節感が無く、それでいて寒さに震えることなく身じろぎ一つしない。

 時刻は17時を回り、夕闇が辺りを赤黒く照らす。

 「あのう・・閉園時間を過ぎてまして、お帰りいただきたいのですが」
 年老いた警備員の男が一人ベンチに座る女性に、申し訳なさそうに退園を願い出た。

 その言葉に女性はハッと顔を上げ警備員に向けるその顔は、やはり寒さのせいで蒼白になった肌に赤く浮き上がった頬、口紅を差していない唇は紫色に変色している。

 年のころは30代ほどであろう女性に見えるが、整った顔立ちをしているのに化粧気はなく、やつれた表情のせいでもっと歳を重ねているように感じる。

 「老婆心ながらお尋ねするが、何かあったのですかね?この寒空の中その恰好、それに・・」
 警備員は自分の右頬を指差しながら、女性の左頬にある腫れた痣を指し示す。

 「あ・・いえ、大丈夫です。ちょっとこの格好で散歩するのは無理がありました・・アハハ・・ごめんなさい、すぐ行きますから」
寒さで身体が固まっていたのか、身体をほぐしゆっくりと腰を上げると、出口の方に向かって歩き出した。

 「散歩って・・それに頬の痣は・・う~ん虐待とかじゃなけりゃいいんじゃが」
 警備員は心配にはなるが、これ以上関わるまいと独り言ち、女性の背を見送った。



 女性は兼六園を出てトボトボと百万石通りを進むが、家路に向かうつもりは無かった。

 日が完全に沈み、寒気が勢いを増す。

 寒さに体を縮めながら歩みを進めるが、全身の至るところから痛みが走る。
 
 痛みに堪え、重い足取りで大きな交差点に差し掛かると、斜め向かいに色とりどりにライトアップされた白い建物が目に映った。

 「私、こっちに来てから一度は行ってみたいと思ってた・・」
 そこは約10年前に出来た現代美術館。

 広い敷地の真ん中に真っ白な低い建物があり、空いた敷地には様々な現代アートのオブジェが備えられている。

 女性は吸い寄せられるように、美術館への通路に足を向けた。

 だが、ゲート手前の芝生の上で膝を抱えて座る一人の少女に気づくと、女性は咄嗟に来た道へと振り返り、少女に背を向けた。

 「お母さん!」
 だが距離を置こうとした背中に、声が掛けられる。

 「お母さん、お母さんお願い待って!」
 今にも駆け出しそうな女性へ、懇願するように少女は叫ぶ。

 その場に立ち尽くしていた女性は、自身の体を抱き締めながらうずくまった。

 「ここで待ってればお母さんに逢えると思って。だって前に一度行ってみたいって言って
たから・・」
 伽羅キャラ色のブレザーにタータンチェックのスカートを着た学制服姿の少女は、手に持っていた朱色のダウンコートをうずくまる女性にそっと覆い掛けた。

 「瑞希ミズキちゃん、ごめんね・・本当にごめんなさい」
女性は俯いたまま、震える声で許しを請う。

 「お母さん、謝らないで・・お母さんは悪くないよ、それにね・・」
 女性の娘であろう少女瑞希は、そっと背中から母である女性を抱き締める。

 「私も家、出てきちゃった。でも大丈夫、ちゃんと置手紙と少しだけどお金も持ってきた」
 その言葉に女性はハッと顔を上げ、瑞希が抱き締める手を取り向かい合う。

 「瑞希ちゃんどうして・・」

 「お母さん、一緒に逃げよ。私お母さんだけいればいい、どこまでも一緒にいる!」
 瑞希は強く母に抱き着き、声を上げて泣いた。

 母であるその女性は、瑞希の背中を甲斐甲斐しくさするのだった。



        §



 14年ほど遡る。

 大野益美オオノマスミ、旧姓竹内益美は、高校時代から約6年間付き合っていた男性との失恋によって、極度の喪失感を伴い、うつ病を患ってしまう。

 当時勤めていた会社も辞める事になるが、実家に戻ると両親や幼少の頃からの友達の助けもあり、徐々に自分を取り戻していった。

 元来、明るい性格であった益美は、実家が営む食堂の愛嬌のある看板娘として精を出していたある日、親友の誘いを断れずに婚活パーティに出席をした。

 そしてその時に見初められたのが、今の主人である大野将臣オオノマサオミだった。

 将臣はスーツ姿でめかし込んだ男性陣の中で、一人だけジャケットにジーンズ姿のラフな格好をし、それでいて悪目立ちするのではなく、見た目は中肉中背の容姿ではあるが、どこかあどけなさが残る屈託のない笑顔で、女性陣を魅了していた。

 益美は元より婚活には興味がなく、そこに並べられた料理に夢中で、言い寄る男性達を適当にあしらい、旺盛な食欲を満たしていた。

 将臣は一目惚れだった。
 テーブルに載りきらないほどの料理に、一人舌鼓を打つおかしな女性に目が留まると、吸い寄せられるようにテーブルの向かいに座っていた。

 そこからは将臣の猛烈なアタックにより、連絡を取り合う中から友達へ、そして恋人になるまでは、そう長くは掛からなかった。

 大きく傷ついた心を持った益美ではあったが、将臣が持つ愛がその傷を容易く埋めていった。

 約半年の短い交際期間を経て、益美が22歳のとき、大野家に嫁ぐことになった。

 交際中に明らかになったことだが、将臣は代々続く金沢の酒蔵の次男坊ではあるが、年の離れた長男は風来坊気質なため、早くに家督を放棄している。 

 従って次男ではあるが、跡目を継ぐ役割を担っていた。

 益美が嫁入りの際、姑は暖かく迎え入れてくれた。というのも、その時には益美のお腹の中に第一子を身ごもっていて、早くも次の跡取りを得たと、大いに喜んでいたのだ。

 だが、生まれてきた子は女の子であった。次こそは世継ぎをと姑はせっつくが、将臣は意に返さず、益美や生まれた瑞希を甲斐甲斐しく扱い、仲睦ましく暮らしていた。

 結婚から2年が経ち、待望の第二子を身ごもるが、臨月を迎える頃に死産してしまう。

 母子ともに危険な状態であったが、益美は命を取り留めた。

 将臣は子の事を残念がる一方、益美が生き残った事に、涙ながらに喜ぶのだった。

 それから約7年、益美が32歳を迎えるまで、新たな子を授かることは無かった。

 その間、日に日に姑からの風当たりは強くなりだし、終いには益美を石女イシヅメ呼ばわりするまでに至る。

 将臣はそんな母親を面と向かって非難することはしなかったが、益美をかばい愛情は変わる事がなかった。

 また益美は、そんな夫が心の拠り所になっていた。

 だが、そんな夫婦の幸せが、歪な形で崩れていくことになる。


 事の発端は、義父の病死だった。

 いつも朝早くから元気に酒蔵を回り、暇を見つけては孫の瑞希ミズキを大層可愛がっていた義父が、年に一度の健康診断によって前立腺ガンが見つかる。

 本人は治療をする意志が無かったのだが、義母と夫の強い説得によってガン治療が行われるようになった。

 最初の手術こそ成功に終わるが、すでに他臓器への転移が認められ、最初の入院からついぞ家に帰ってくることはなかった。

 多くの人々に惜しまれた葬儀が終わり諸七日の頃、一人の弁護士を名乗る男が現れる。

 弁護士は義父の代理人として、遺言書を携えていた。

 その遺言書にはたった一文記載されていた。
 「跡目は長男俊一シュンイチとする」



 将臣マサオミは、青天の霹靂ヘキレキだった。

 元々は家業を兄が継ぐものと思い、自分の夢であった音楽家の道を歩み始めた矢先に、兄は外国へ旅をすると、両親の制止も振り切り家を出ていった。

 そして旅立つ際に「後は任せた」と無責任な言葉を残していったのだ。

 将臣は兄を許せなかった。
 嘆き悲しむ母と、憤りを静かに仕事へぶつける父の姿は、いたく将臣の心を抉った。

 それからの将臣は、早く一人前になるべく、寝る間も惜しんで酒蔵の仕事に邁進し、気付けば職人達も一目置く杜氏トウジになっていた。

 伏せがちであった母の顔に生気が戻り、父とは仕事の話になると、意見を勝ち合えるまでになっていた。

 そしてかけがえのない家族を得た将臣は、家業を生き甲斐に感じ父の後を継ぐ志があったからだ。



 代理人が訪れた翌日、見計らったかのように兄俊一は帰郷した。

 当然、将臣は俊一が敷居を跨ぐことを許さない。

 だが母はその帰郷を待ち望んでいたかのように、涙を流し俊一を迎え入れたのだ。

 居間にて、家族一同と俊一による話し合いが行われた席で、母から事の経緯を聞かされる。

 父が入院してから、俊一は何度か父の元へ足を運んでいたという。

 俊一の外国への旅の理由は、諸外国の蒸留酒に興味が湧き、その全てを知るために現地での修行をしたかったからだ。

 蒸留酒と日本酒は同じ酒でも全くの別物。その為に俊一は自分の夢を実現する道を選び、家を捨てたのだ。

 病の知らせを母から聞き帰国した俊一は、父の今わの際の言葉
 「別物でも酒は酒。お前の力を貸してくれ」

 その言葉と後に知る弁護士に託された遺言書の意を、俊一は受け止める覚悟を決めたのだという。

 兄は言う
 「将臣、お前が必要だ。俺とお前とで、この酒蔵で最高の酒を作ろう」

 何を言っている?ここは俺のだ、お前の居場所などない。

 母は言う
 「将臣、お兄ちゃんをあなたの力で盛り立ててやって、頼みますよ」

 母さんは裏で兄さんと通じてたんだろ?

 俺を手の平で踊らし、嵌めやがったな?

 将臣の心に、どす黒いシミが浸透していくのだった。



 程無くして、俊一は諸外国で培った手腕を発揮していく。

 奇抜なアイデア、何度も失敗を経験していくが、それでも折れることなくチャレンジしていく姿に、次第に職人や従業員の心を掴んでいく。

 俊一は将臣の手腕を買っていて、職人の前でも弟を立てて物を言う。

 だが、その遣り取り一つ々が、将臣の心を荒ませていった。
               

               
 俊一が二十三代目として家業を継いだ日から、半年ほど経った日。

 俊一はイギリスで結婚をしており、残していたその家族を家に呼び寄せることになった。

 その為、将臣ら家族はハナレに居を移すことになる。

 ある日、いつも通り夕食を家族と共に過ごしている時、晩酌として益美が洋酒を取りだした。

 その酒はスコッチウイスキーで、将臣にとって口にしたこともある酒。

 だが我が嫁が取り出した酒が兄の酒だと錯覚視し、嫁までも兄を取るのかと激昂してしまう。

 思わず手にしたバカラグラスを益美に投げつけ、益美はうずくまる。

 ハッとし、自分がした行為に後悔をすると同時に、下腹部にジンと熱を帯びるのを感じた。

 将臣がその時、瞬間だった。

 最初の内は夜の営みに、少しサディスティックな行為を加味する程度であったが、次第にその行為もエスカレートしていく。

 益美に対する言動も横暴な物言いになり、少しでも気にくわない事柄があれば、暴言を吐き罵倒する。

 益美は夫将臣の心情に出来る限り嫁として献身的に寄り添い、支えになるべくその行為に耐え続けた。

 夫の暴力を外に知られるわけにはいかないと、夏場でも薄着はせず身体中にある痣を隠し、顔に出来た痣は化粧によって隠す。

 誰にも相談することも出来ず、かと言って逃げ出すつもりは無い。

 出来るなら、昔の夫に戻って欲しい、愛情豊かなあの笑みを浮かべる・・。

 それを取り戻せるのは私しかいないという、使命感にも似た感情があるからだった。



 暴力に日々耐え続けること2年がたった現在。

 いつものように、酒蔵へ手伝いに行った時だった。

 俊一が益美を呼び止め、将臣の事について聞かれた。
 平静を装い、話を聞くが、顔の痣が化粧で隠しきれていなかったのだ。

 職場でも隠れたところで粗暴な態度を取る将臣を知り、尚且つ嫁である益美に暴力の痕を見受ければ、おのずと将臣の悪癖が見て取れる。

 痣は将臣によるものではないと言い訳をしていたが、俊一の熱のこもった弟への愛情と、その嫁である益美に対する思いやりある言葉にホダされ、この義兄ならばと涙ながらに全てを吐露したのだった。
 
 夕食の買い物をし、支度をするため台所に向かうと、将臣が帰って来ていた。

 益美は恐怖で、身体が痺れたように立ちすくむ。

 そこにいる将臣は、鬼の形相、いや鬼そのものだった。

 将臣は益美を見留めると、両の口角を吊り上げこれから行う行為に思いを馳せながら、喜悦に身を震わせる。

 益美は身包みを剥がされ、将臣は持っていたベルトを鞭のように使い、裸の身体に打ち付る。

 それに飽き足らず、台所にあったすりこ木棒を、何度も益美の身体に叩き付けた。

 身体中裂傷と内出血の痣だらけになり、益美は声がれ叫ぶ声も次第に上げることも出来なくなっていく。

 満足がいくまで暴力の限りを尽くした将臣は、益美をそこに取り残したまま、自室へと向かった。

 その時、「ただいま」と部活動より帰宅した娘の瑞希が、変わり果てた益美の姿を見留め、呆然と立ち尽くした後、悲鳴を上げた。

 益美に縋りつき、何度も母の名を叫ぶ瑞希に、益美は力の入らない身体をなんとか動かし、瑞希を抱き締め言い繕う。
 「お父さんが悪いんじゃないの、お母さんがちゃんとしてないからなの」



 今まで瑞希の前で暴力を振るう事は何度もあり、その度に瑞希は益美を庇う。

 だが将臣は、娘の瑞希を手を掛ける事は無かった。

 将臣が暴力を振るうようになった時、まだ小学生であった瑞希は、毅然と父親である将臣の前に立ちはだかり、身を挺して将臣に反抗した。

 将臣の恫喝とも取れる物言いにも屈することなく、瑞希は真直ぐな瞳で父親を射返すその姿は、頼もしくもあり、また不安でもあった。
 「いつかこんな私は見限られ、離れていってしまう」

 そんな一抹の不安が益美にはあった。



 衣服を整え、覚束ない足取りで台所に立つと、背中越しに瑞希の声がした。

 「お父さん!お母さんにどうして酷いことするの!こんなの・・」
 
 瑞希の言葉が言い終わる前に、何かを弾くような音がした。

 咄嗟に振り返ると、将臣が瑞希が持っていた竹刀袋を手に仁王立ちし、その足元に瑞希が倒れ込んでいる。

 この日ばかりはいつもと違った。

 今までにない酷い暴力。

 今まで娘には下さない暴力。

 益美にあった自傷の心の傷を塞いでくれた将臣自身に、心を壊される。

 益美は絶叫していた。

 益美は気狂いのように叫びながら、辺りに何度も身体をぶつけながら家を飛び出した。

 泣き叫びながら生活道を通り、幹線道路に行き着く手前で大きく転んだ。

 心が砕け、自我を失った自身を我に返したのは、足に履いた靴だった。

 転んだ足にはしっかりと靴が履かれていた。

 無意識とはいえ、靴を履いていたのだ。

 泣き笑いとも取れる自嘲気味な笑いが漏れた。

 もういい、もういいのだと。

 身体中の痛みを堪えて、幹線道路を家とは逆方向に益美は歩いて行った。
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