セカンドライフは魔皇の花嫁

仁蕾

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 九月二十五日。その日は秋も半ばに差し掛かっているにもかかわらず、夏のように暑い日だった。
 ある産婦人科で、大きな産声を上げて一人の赤ん坊がこの世に生を受けた。星呂ほしろ家待望の男の子の誕生である。
 康泰こうたと名付けられた赤子は、両親や祖父母から深い愛情を注がれながら、すくすくと育った。周囲の人間が恐怖に慄くほどの成長ぶりで。
 産声を上げてから早十八年。身長はもうすぐ一八〇を迎えるほどの高身長。武道や喧嘩に明け暮れた体は無駄な脂肪もなく引き締まり、その佇まいも凛としている。誰もが一瞬は見惚れる精悍な顔立ち。眦の吊り上ったアーモンド形の双眸にはめ込まれた琥珀色の瞳。
 多くの学生がその名を一度は聞いた事がある星呂康泰の名は、市内きっての悪童としてその名を轟かせていた。
 もちろん、本人としては至極不本意である。
「解せん」
 舌打ち交じりに呟けば、無駄に通りの良い声は教室中に響いてしまったらしく、休み時間で騒がしかったその空間が一瞬にして沈黙してしまう。
「…なに、ホッシーまだ解せてなかったの…?」
 声を掛けたのは、康泰の隣席である学級委員長の渡瀬みのりだった。渡瀬と話していた友人たちも、往生際が悪いと声を上げて笑い出す。
 クラスメイトから頼りがいがあると人気が高い康泰は、爪弾きにされる事など微塵もなく、むしろ縁の下の力持ちと愉快な友人たちに巻き込まれる日々を過ごしていた。
「星呂、お前いい加減諦めろって」
「中学からの話を今更…」
 渡瀬の開口をきっかけに、クラスのあちらこちらから声が上がり始めるが、康泰は憮然とした表情で頬杖をついた。
「諦められるのならとうにそうしている。出来んから言っているんだろうが」
「六年目にしてなお抗うとか…尊敬するわ、その精神力…」
 康泰の前の席である林凜太郎が呆れた目線で康泰を振り返る。それでも眉間の皺を深くしていく康泰に、誰もが苦笑を禁じ得ない。
「まあさ、卒業すれば環境なんて変わるじゃん?ホッシーは県外進学予定なんでしょ?」
 渡瀬の言葉に頷くとほぼ同時に、次の授業の予冷が鳴り響く。
「県外行きゃ、知らない間に名前も埋もれてくだろ。まあ、『伝説』様はどうか知らねーけど」
「林…」
 唸ってみても、林とは中学二年からの付き合いだ。何の威嚇にもならず、どんまいと心の籠ってないエールを送られて終わるのだった。
 六時間目は古典の授業だ。教員の声を聞き流しながら康泰は校庭を眺めていた。校庭では一年生がサッカーやテニスの選択授業で汗を流している。
「ふあ…」
 康泰の座る窓際の席は日当たり良好で、入り込んでくる風も心地よい。夏が終わろうとしているにもかかわらず、僅か日差しが強いがそよ風がその暑さを和らげており、絶妙な暖かさで眠気を誘う。
 古典の教員は若いのだがその喋り方がゆっくりで、子守歌に聞こえて来るのは仕方がない。現に、何人かの生徒が夢の世界に旅立っている。そして、襲い来る眠気に抗い続けていた康泰も、抵抗を諦めて目を閉じたのだった。


 目の前が吹雪いていた。しかし、外にいるはずの我が身には風の痛さも雪の冷たさも何も感じない。見下ろした足元は確かに深雪に沈んでいる。
「皇妃、何をしている」
 ハッとした。それは自身の名ではないのに、己を呼んだのだと理解して振り返った。
 浅黒い肌をした男。金の髪と黒の双眸。美しい男だと心底思った。
 男の表情は無だ。何も読み取らせてはくれない。しかし、こちらを見つめる眼差しは、慈悲と慈愛を垣間見せている。
「行くぞ」
 差し出された己よりも大きな手。何の抵抗もなくその手に自分の手を重ね、口を開いた。


「リィ、ン…」
 自分の呟いた声をきっかけに、ゆっくりと瞼が押し上がる。数度まばたきを繰り返し、そこが授業中の教室であると認識するとのそりと体を起こした。
 どうやら自分の声は誰にも聞かれていなかったようで、時計を確認すれば眠る直前に確認した時間より、五分ほどしか経っていなかった。短時間睡眠で頭はすっきりと冴え、息を吐き出して気を持ち直すと、再び板書に勤しみ始める。
「ここ、今度の中間に出しますからね。寝ている子たちには内緒ですよー」
 教員の言葉に、あちらこちらから小さな笑い声が上がる。
 康泰は危なかったと胸を撫で下ろし、赤色で要注意とノートに書き加えた。ほぼ同時に終了のチャイムが鳴り響いた。
「では、授業を終わります。委員長」
「起立、礼。ありがとうございました」
 学級委員長である渡瀬の号令に倣って、生徒たちが教員へ「ありがとっしたー」と声を上げ、その流れで教室内は喧騒に包まれた。六時間目の後は掃除である。
 康泰に割り当てられている掃除場所は、地理を担当教科とする担任の依頼により社会科準備室となっている。身長もあり力もある為、重宝されていた。
 教室掃除担当である林に後を託し、苦情を言われる前に足早に教室をあとにした。
 準備室へ向かう道すがら、誰も居ない渡り廊下に足を踏み入れれば、別棟のスライドドアに寄り掛かる少女がにこりと微笑み掛けてきた。襟章の色は二年を示す。
「先輩、こんにちは」
「えーと…済まん、君は…?」
 初見では誰なのか判断できなかったが、よくよく見ても少女と接点を持った記憶がない。特徴らしい特徴もない顔立ちの少女は、戸惑う康泰に笑みを返した。
「此度はご尊顔を拝す為に参ったのみ。ご挨拶はまた改めて…皇妃閣下」
 少女は年齢にそぐわない妖しい笑みを浮かべて、芝居がかった動作で恭しく頭を下げて見せた。同時に糸の切れた人形のように全身の力が抜け、体が傾ぐ。
「ちょ…っ!」
 反射的に足を踏み出し、駆けた。少女の頭とコンクリートがぶつかる寸前に手のひらを滑り込ませる事に成功するが支えきれずに手の甲をぶつけ痛みに顔を歪める。しかし、少女の身を守れた事に安堵の息をついた。
「さて…どうしたものか…」
 少女の肩を抱いて支え、周囲を見渡す。すると、社会科準備室から担任の山杉が出てきた。
「先生、ナイスタイミング」
「お?おお、星呂…って、お前何やってんだ!?」
 山杉は康泰の腕の中に納まる少女に気がつき、慌てて駆け寄った。
「あー…多分、貧血…?急に倒れたんで」
「そうか…仕方ねーから保健室連れて行くわ。てか、お前、怪我してんじゃねーか。一緒に行くか?」
「いや、大丈夫です」
 山杉の申し出を掠り傷だからと断る。少女を背負った担任の背を見送り、康泰はひとつため息を吐き出して掃除を行う為に社会科準備室へと足を踏み入れた。
 昨日の資料整理の続きをしようとパイプ椅子に腰を下ろした康泰は、手仕事の前に先ほどの少女の事に思考を巡らした。
「…何だったんだ、あれは」
 ―ご尊顔を拝する為に…
 ―皇妃閣下
「やけに丁寧な言葉だったし…と言うか、妃とはなんだ妃とは」
 女ではないぞ、と的外れな文句を言いながら片すべき資料へと手を伸ばす。
 穴を開けては紙ファイルに綴り、クリアファイルから資料を抜き取っては穴を開けるを繰り返して五分が経つ頃、ようやっと山杉の帰還である。
「お帰りなさい」
「ああ…」
 山杉の珍しく神妙な面持ちに康泰は首を傾げ、あの少女に何かあったのかと問い掛ければ、「うーん…」と唸りガリガリと頭を掻いた。
「保健室連れてって、しばらくしたら目を覚ましたんだがな?どうやら自分が倒れた事も、ましてや自分がそこの渡り廊下にいた事も覚えてないみたいなんだよ…」
「は…?」
「ああ、もちろん、お前が何かしたんじゃねーのかとか微塵も思ってねーよ?どうも不審者に会ったのが最後の記憶らしくてな…」
 少女が言うには、いつもは一緒に掃除区域にいく友人が御手洗いに行くからと珍しく一人で持ち場である裏庭に向かった矢先の事。声を掛けられ、そちらに顔を向け赤い目の男と目が合ってからの記憶がなく、気が付けば保健室のベッドに寝ている現状となったらしい。
「赤い目…?それはまた…いい歳して患ってらっしゃる御仁がいた、と…」
「その表現は多分適切じゃないぞ、星呂」
 山杉の言葉に「ですよね…」と返しながら、綴り終えた分厚いファイルを足元の段ボールに入れて、新しいファイルをビニールから取り出した。
「それ以外に異常は無さそうでしたか?」
「ああ、町川先生も大丈夫だとは言ってたな」
「彼女…不安がっては居ませんでしたか?」
「いや、お前に抱き止められた事伝えたら、そっちに舞い上がっちまってな…凄かったぞ、色々と」
 その光景を思い出したのか、山杉はどこか遠くを見ながら乾いた笑みを溢したのだった。山杉は思い出していた。今にも鼻血を噴き出さんばかりに興奮をしていたうら若き乙女の姿を。
 言葉を濁しながらも問題はないと再度伝えれば、康泰は口元を緩めた。
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