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第一部 夫の生殺与奪の権利、いただきます

エピローグ

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「ヴィオレーヌ、ヴィオレーヌ!」

 切羽詰まったような声のあとに、ぺちぺちと頬を軽く叩かれる。
 草の感触だろうか、背中が少しチクチクとする。
 頭がくらくらとしていて、ちょっと気持ちが悪いなと思いながらゆっくりと瞼を持ち上げたヴィオレーヌは、視界に映った顔にギョッとして勢いよく呼び起きた。

「でっ、殿下⁉」

 頭からだらだらと血を流し、満身創痍という言葉以外思い浮かばないほどズタボロのルーファスが目の前にいた。

「よかった、目を覚ましたか……」

 ホッとしたルーファスが、その場に倒れ込むように横になって、「うっ」と低いうめき声をあげる。
 左足が変な方向に曲がっているのを見たヴィオレーヌはさあっと青ざめた。

「殿下! 足、折れてるんじゃないですか⁉」

 それだけではない。
 背中は大きく破れて真っ赤に染まっているし、腕も折ってしまったのか、だらんと力なく地面に投げ出されている。

「殿下! わたしがあげたポーションはどうしました⁉」

 ヴィオレーヌはいったいどのくらい気を失っていたのだろう。
 そしてルーファスは、この大怪我のままどのくらいの時間を過ごしたのだろうか。
 額には脂汗が浮かんでいて、顔は血の気がない。
 ルーファスは視線だけを動かして、小さく笑った。

「使った」

 ルーファスの視線を追うと、ヴィオレーヌが作った改良版ポーションの空き瓶が転がっていた。

(使ったって、でも、傷……まさか!)

 ヴィオレーヌはハッと目を見開いた。

「わたしに使ったんですか⁉」
「ああ」
「どうして⁉」
「……お前も、ひどい状態だったから」
「だからって!」

 落下しながら魔術を使ったため、即死は避けられたが、魔術をしっかりと練り上げる時間が足りなかった。
 命だけは助かったが、ルーファス同様ヴィオレーヌもひどい状態だったらしい。
 さらにルーファスは意識があったがヴィオレーヌは頭を強く打ったのか意識がなく、ルーファスは慌ててポーションを飲ませたという。

(飲ませたって、意識が……)

 ハッとヴィオレーヌは唇を押さえたが、すぐに頭を振った。今はそんなことを恥ずかしがっている場合ではない。

「すぐ治します!」

 ヴィオレーヌは聖魔術を使ってルーファスの傷を癒す。
 折れた腕や足も、傷もすべて癒えると、ルーファスが息を吐き出して体を起こした。

「お前の力は本当にすごいな」

 手や足を動かしてルーファスが笑う。
 彼の傷が癒えたことにホッとしつつ、改めてルーファスに向き直った。

 落下したときに引っ掛けたのか、服はあちこち破れている。
 そして血だらけだ。
 見上げた崖は高く切り立っていて、下からでは上の様子はわからないが、今頃騒然となっているはずだ。当然である。ヴィオレーヌはまだしも、世継ぎである王太子が妃を追って崖から飛び降りたのだ。あり得ない。

 その時のことを思い出すと、なんだかヴィオレーヌはムカムカしてきた。
 ずいっとルーファスに顔を近づけて、キッと睨む。

「殿下、何を考えているんですか!」

 すると、ルーファスは顔を真っ赤に染めて、ぱっと視線を逸らした。ヴィオレーヌは怒っているのに、顔を背けるなんてどういうつもりだろう。
 ますます腹が立って来たヴィオレーヌだが、顔をそむけたままのルーファスが破れてボロボロの上着を脱ぎはじめて首を傾げた。
 上着を脱ぎ終えたルーファスが、視線を逸らしたままヴィオレーヌにそれを差し出す。

「先にこれを着てくれ」
「着てくれって言われても……」

 ボロボロじゃないか、と言いかけたヴィオレーヌは、ふと自分の姿を見下ろして、ボッと真っ赤に染まった。
 ヴィオレーヌはルーシャに騎士服を借りてそれを着ていたが、ルーファス同様あちこちが破れていてボロボロになっている。
 もっと言えば、肩から腰に掛けて斜めにざっくりと大きく破れていて、胸が――

「きゃああああっ」

 ヴィオレーヌはルーファスの手からひったくるように上着を奪うと、それで胸元を隠した。
 白い肌の上には広範囲に血の跡がついているので、たぶんそれがうまくごまかしてくれてそんなにはっきり見えていないと思いたいが――丸見えだ。

 ルーファスに背中を向けて、ヴィオレーヌは彼の上着に袖を通す。これもボロボロだが、ボタンをしっかり留めると胸元はうまく隠れてくれた。
 だが、恥ずかしくてルーファスの顔を見られない。
 顔をそむけたまま、ヴィオレーヌは胸元をぎゅっと押さえて、真っ赤な顔で少し口を尖らせた。

「な、なんで、わたしを追いかけてきたんですか」
「咄嗟に体が動いたんだ。……それに、自分の妻を守ろうとするのは当然のことだと思うが」
「殿下は王太子ですよ?」
「そしてお前は俺の正妃だ」

 その通りだが、納得いかない。

(まあ、わたしが死んだら自分も死ぬから、反射的に飛び出したのかもしれないけど……)

 しかし、だからと言って、あの高さから飛び降りるだろうか。
 ヴィオレーヌは、ちらりとルーファスを盗み見る。
 ヴィオレーヌの聖魔術で治癒したけれど、さっきまでひどい怪我だった。ものすごく痛かっただろう。それなのにヴィオレーヌの治癒を優先し、ポーションを使ってくれた。いくらヴィオレーヌと心臓がつながっているからと言って、やりすぎだ。

「わ、わたしは魔術が使えるので、そう簡単には死にません。だから……」

 命をつなげておいてなんだが、ルーファスがヴィオレーヌの命を守ることを優先しなくてもいいのだ。
 そう言おうとすると、ルーファスがむっと口端を曲げた。

「別に俺は、俺の命が危なくなるからお前を追って飛び出したわけじゃない」
「だ、だったらなんで飛び降りたんですか」
「さっきも言っただろう。自分の妻を守ろうとするのは当然のことだ」
「意味が――」
「俺は、お前を助けたかった。……結果として、何もできずに、むしろお前に助けられたようなものだがな」

 わけがわからなくて、ヴィオレーヌは瞳を揺らした。
 ヴィオレーヌはルーファスの妻だが、心を通わせた夫婦ではない。 
 ヴィオレーヌは人質同然の政略結婚で、ルーファスはそんなヴィオレーヌを疎んじ、憎んでいるはずだ。

 最初に比べると彼の態度は軟化していたが、それでも、ルーファスにとっては「守るべき妻」ではないはずなのである。
 彼がヴィオレーヌを守るのは自分の命を守るためであって、ヴィオレーヌを守りたいからではない。――その、はずなのだ。

(でも、助けたかった、って……)

 それは一体どういう意味なのか。
 ヴィオレーヌは軽く混乱し、狼狽える。
 助けたかったと言われた意味がわからない。

 なんだか、心臓がうるさい。
 ドクドクと、大きな音を立てる心臓が、ヴィオレーヌをさらに動揺させる。

 一度大きく息を吐き出したルーファスが、びっくりするほど真剣な顔をした。

「ヴィオレーヌ、この際だ、はっきり言っておく。たぶんお前には、はっきりと伝えないとわからないだろうからな」

 ヴィオレーヌは小さく首を横に振って、じりじりと座ったまま後ろに下がった。

 なんでだろう。彼の言葉をこれ以上聞いてはならない気がする。
 聞いたら――、ヴィオレーヌの中で何かが変わってしまいそうな、恐怖に似た何かを感じた。
 たぶん、ヴィオレーヌは彼の言葉を聞いてはならないのだ。
 ヴィオレーヌが、ヴィオレーヌ自身に課した生きる目的に、彼の言葉はきっと必要ない。

 とん、とヴィオレーヌの背中が何かぶつかった。
 ハッとして振り返ると、太い木の幹がある。
 慌てて横にそれて逃げようとしたヴィオレーヌの顔の両脇に、とん、とルーファスが手のひらを突いた。

 囲い込まれて、逃げられない。

 ルーファスの、綺麗なシルバーグレイの瞳が、暗闇の中でまっすぐにヴィオレーヌを見下ろしている。
 視力を強化するのではなかったと、ヴィオレーヌは軽く後悔した。
 今日の月のように綺麗なルーファスの瞳から、視線が逸らせない。

 ざあっと、夜の少し冷たい風が二人の間を縫うようにして抜けていく。
 息もかかりそうなほど近くにルーファスの顔があった。
 真剣な色をしていたシルバーグレイの瞳が、ふっと柔らかく細められる。

「ヴィオレーヌ」

 たぶん、今までで一番優しく名前を呼ばれた。
 何も言えないで見つめ返していると、ルーファスがさらに甘い声で告げる。

「俺は、お前が好きだ」

 通り抜けていった風がまた戻って来て。

 ルーファスの、綺麗な金色の髪が風に乱されていくのを、ヴィオレーヌは目を見開いたまま、息も忘れて、ただ見つめ返した――




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