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庶子平
五
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憤懣やるかたないとは、このことか。秦開は怒りで逆上そうになりながら、観音開き鉄扉の前で、気息を整えた。
大仰な深呼吸に房を警護する、二人の衛士が、「将軍、大丈夫ですか?」と声を掛けてくる始末。秦開はぎこちない作り笑いを浮かべ、「何てことはない」と返す。
「秦開将軍がお見えでございます」
衛士が高らかに、扉の奥にまで聞こえるように告げた。
わざとらしい空咳が鳴る。
「通せ」
よく透る声で宣う。
扉が重低音を響かせて開いた。房に満ちていた香の馥郁とした香りが押し寄せてくる。
「どうした、秦開?今日は一段と顔が険しいぞ」
蒼裙の裾をはだけるほどに股を開き、脇息に凭れかかる姫平はあっけらかんと告げる。
「白々しいですぞ。若」
秦開の岩を想起させる顔が、憤懣で更に角ばっていく。
「さて。何のことか」
あろうことか姫平は、此方の神経を逆撫でするように、鼻の孔をほじり、欠伸までし出す始末。見る見る内に、陽に焼けた秦開の肌が赤黒く変色していく。
「貴方様は未だご自身の御立場を理解されていない」
また始まったと。姫平は嘆息し、斜を向く。
「貴方様は偉大なる燕王の御令孫であらせられるのですぞ。何度も申し上げますが、為政者としての教育を受けるのは、貴方様の義務なのです。それなのに、貴方は黄元殿の講義を抜け出し、裋褐(粗末な服)を纏い、高貴な身分を貶め、負郭の娼館で女色に耽溺する始末」
庶子平の教育係を任されている、秦開にとって、これほど情けのないことはない。
秦開は四十半ば。妻との間に、一人の息子をもうけはいるが、本心はこの馬鹿王子も実の子供同然に愛くるしい。だからこそ、余計に情けなく虚しくなってくる。いつしか怒りは消え、秦開は滂沱の涙を流していた。
「やめろ。泣くな、秦開。お前こそ、この燕国の大司馬(軍の総帥)なのだぞ。人前で涙など流すな。みっともない」
具足の内から布切れを取り出し、きーんと鼻をかむ。
「軽挙妄動は控えて頂きたい」
嗚咽を堪え、秦開は震える声で言った。
「歳をくうと、それほどに人は涙脆くなるものなのか」
姫平はやれやれと立ち上がり、秦開の丸くなった背を優しくさすり、榻の上に座らせてやる。
「なぁ、秦開。俺のことで神経質になるな。所詮、俺は庶子の一人に過ぎん。俺は好きなように生きたいのさ」
姫平は席次の低いー。いわゆる賤妾の子だった。彼の父―。太子噲は色狂いとして有名で、十代前半の頃から、女体に耽溺し、三十人を超える子を成している。席次の低い妾の子に、王位継承権はない。嫡流から外れた彼等を庶子と呼ぶ。
一般的に庶子は公宮において、白眼視されることが多い。王位継承権を持つ公子達は、賤しい女の子として蔑み、憚らず穀潰しなどと悪罵する。秦開してみれば、公子達もそうは変わらない。ただ偶然、席次の高い妃妾の子として生まれただけで、働きもせず、搾り取った民の膏血で安逸を貪っている者が殆どである。
背をさする手をとめ、姫平は嗚咽を漏らす、秦開の隣に腰を下ろした。
「お忘れか。大王様は太子である、貴方の父君でなく、庶子の一人に過ぎない、貴方様に護国の剣を下賜されたのですよ」
秦開は涙の滲む充血した眼で、衝立の傍で無造作に立て掛けてある、剣格に二つの宝玉が填った剣を見た。
この燕国には、歴代君主に受け継がれる三つの神器なるものがある。一つめは白虎裘、二つめは烏号と呼ばれる神弓。この二つは、周の武王が始祖召公奭に下賜したものである。特に烏号は、神代の黄帝が愛用し、神竜に乗って天へと昇る際、別れを惜しむ地上の人々に残した弓と伝わっている。
そして、最後は現燕王が庶子平に託した護国の剣。この剣についての仔細は、歴代の君主の座についたものにしか語られていない。先の二物と違い、明確な伝承は残されていない。
だが、白虎裘と烏号が、宮殿の天地を祀る祭殿に保管されているのに対して、護国の剣は歴代の君主が受け継いでいくことになっている。つまり、先君より護国の剣を託されたものこそ、次の君主となる。病床にある燕王が、庶子に過ぎない孫の姫平に護国の剣を託した。本来、剣を託すのならば、太子噲が至当というものだ。
燕王は太子を廃嫡し、孫の姫平を新たに太子へと冊立するつもりなのだろうか。だが、臥せる燕王は何も語らず、太子噲への廃嫡の動きもない。今、燕の都である薊の宮中は、気味が悪いほどに森閑としている。新たな王に付き、既得権益を保持したい佞臣共が、息を潜めて趨勢を静観している。
太子噲は狂宴濫行を好む、凡愚であるが、君主の座にあまり興味を喚起していない。息子の姫平も同様に護国の剣を託されたことで、自身が正統な後継者だと主張することもない。本来ならば、骨肉相食む政争が繰り広げられていたことだろうが、両者とも幸い君主の座に関しては、恬淡であった。
一度、冊立された太子が廃されることになれば、国は多いに擾るる。だが、燕王は分別がある為政者である。後継者争いによる騒擾で滅びた国は幾つも存在する。其れを知らぬ燕王ではない。何故、己の命が風前の灯である時、太子に託すべき護国の剣を、一庶子である姫平に託したのか。この所、秦開の胸中には獏とした不安ばかりが拡がっていた。
姫平は護国の剣を執り、装飾のない黒鞘から刃を抜き放った。錆を纏った刀身が露わになる。彼は剣格に嵌った蒼と黒の玉をつらつらと眺める。
秦開は榻から飛びのき、床に額ずく。軍人が軽々しく直視して良いものではない。王の分身とも呼べる、霊験あらたかなものだ。なのに、当の持ち主ときたらー。
「こんな鈍らに何の価値があるというのか。女の柳腰すら斬れるか怪しいものだ。爺様は、何故、このようなものを俺に託したのか」
と悪態をつき、まるで玩具のような扱いで空を斬ってみせる。驚きのあまり秦開は、言葉に窮した。霊験あらたかな、古の為政者達の魂が宿った宝剣を、これほどに雑に扱う愚か者は存在しただろうか。
「これのせいでつまらぬ揣摩憶測が宮中で流れている。迷惑も甚だしい。俺に王など務まるはずはないのだ。爺様も職のような勤勉な孫に託せば良いものを」
姫平は憤懣をぶつけるように、荒々しく剣を鞘へと戻した。秦開は眩暈を覚え、気が遠くなるのを感じた。視界が暗転していく。
その時、扉が開く音がした。傾いた秦開の躰を、優しく受け止めてくれる者がいる。
「子之殿」
玲瓏な女子のような顔が眼の前にあった。陶器のような白い肌に、桃色の唇。艶のある美髯。切れのある眼が和らいでいる。
「お気を確かに。秦開将軍」
己を受け止めた美青年に、頬が赤らむのを感じた、秦開は慌てて立ち上がり拱手する。流麗な動きで、子之は拱手を返した。
「父上の薬篭中物が何の用だ?」
強い口調で姫平は尋ねる。声音は険を含んでいる。
子之という青年官吏は、太子噲の唾壺係から成り上がってきた者であった。その素性は明らかではないが、今や太子噲は子之をまるで愛妾のように片時も離さない。
太子噲は鶏姦の気がある。彼の出世には、端麗な容姿が多いに活躍したのかもしれない。だが、彼は容貌だけで成り上がってきた男ではない。頭脳明晰かつ機略雄大。そして、太子噲を通して、人脈を拡げ、今では宮中一に顔が広い。人脈を侮るなかれ。時に強い後ろ盾を得る者は、王以上の権を持つ。飛ぶ鳥を落とす勢いで力をつけた子之であるが、きな臭い噂は聞かない。清廉潔白―。其れを体現したような男が子之である。
「大王様が御呼びで御座います」
蒲柳を窺わせる青年が、拝を重ね、長揖する。姫平は何も返さない。己に向けられる敵愾心を意に返すこともなく、子之は眼許に笑みを刻む。
「何故、父の側近であるお前が、それを?」
「大王様の謁見を済ませたばかりなのです。下の者を遣わせれば、煩雑な手間が多い。故に不肖子之が参ったしだいで御座います」
「ほう、ご苦労なことだ。遂には、その美貌で爺様を篭絡したか」
姫平が笑語する。
「大王様を篭絡など。有り得ませぬ。下賤の身である私は、大王様のご尊顔を拝するだけで、瘧を起こしたような躰が震えてしまうのです。篭絡などとても」
子之は目尻を下げ、今にも泣きだしそうな顔になる。なんと蠱惑的な相貌だろうか。彼の悄然とした姿を眼の当りにすれば、市中の女子は競うように、彼を慰めることだろう。
「ちっ、気勢が削がれた。もういい、去ね」
姫平は背を向け、独座に向かう。その手には護国の剣がある。
「では。之にて失礼致します」
再び長揖する子之。持ち上げて重ねた両手。垂れ下がる朝服の袖の隙間から、鋭い刃の如き眼が光ったような気がした。そして、その視線の先にはー。護国の剣がある。まるでその眼つきは、豺狼のように卑しい。まさかと思い、瞬くと、子之の眼はいつもの穏やかなものに戻っていた。
一礼し去る子之に、秦開は老練の軍人らしく、固い拱手で返す。
「若。何故、あれほどに子之殿に冷たくあたられるのです?」
脇息に凭れかかる姫平は、不満顔で、
「奴からは狡猾な獣の匂いがする」
と言った。
「獣の匂いですか」
首を傾げる。子之は燻した香草のかぐわしい匂いを纏ってはいた。だが、不意に思い出す。袖の隙間から覗かせた、子之の異様な眼つきを。
「お前は千軍万馬の猛将だが、人の本質を見抜く炯眼を持ち合わせていない」
秦開は軽く吐いた、若き庶子の言葉に気色ばむ。
「何を申されるか。私が見込み鍛え上げた兵士達は、一様に戦場で赫赫たる功績を挙げております」
認めたくはないが、姫平も、己が見込んだ一人であった。常に飄々と振る舞い、宮中ではうつけとものと評される姫平には、瞠目に値するほどの軍才が宿っている。
体術、剣術、弓術、馬術―。その全て既に絶技の域にある。彼が王の血を引くものではなく、武門の子としてこの世に生まれ落ちたのなら、戦国七雄随一の軍人になれる可能性を秘めている。不羈奔放な庶子に翻弄されながらも、秦開は赤心から、姫平に愛情と忠義を抱いている。
「文官と武官は同じ生き物と考えぬことだ。例外もあるが、往々にして奴等は、仁義の心を持たず、小利に誘われて、翩々と尽くす相手を変えるような輩だ。だが、自己韜晦は武官より遥かに巧い」
「子之殿がそうだと」
姫平は上体を起こし、秦開と向き直った。飄然とした表情は消え、真一文字に唇を結ぶ。秦開の肌が粟立った。
(この顔だ。時折、見せるこの真剣な表情からは偉器を感じる)
収斂されていく気配。この若き庶子は、万を超える白刃を潜り抜けてきた、宿将秦開でさえ竦みあがる気魄を時に放つ。
「宮中でのし上がってきた者に、手を汚していない者などいない。誰でも探りを入れれば、黒いものは浮き上がってくる。しかし、あの優男にそれはない。俺の目が曇り、本当に奴が神の如き清廉潔白な男なのか。そうでなければー」
言葉を切った姫平は、膝を強く叩く。
「秦開。東の情勢を調べて欲しい」
「東―。つまり、斉ですか?」
斉は燕の南東に位置する、山東地方の大国である。六十万を越える精兵を有し、領土は包囲二千里を超える。西の秦と東の斉―。この二国が七雄で頭一つ飛び抜けた国力を有している。
「斉に胡乱な動きがあると?」
燕と斉はいつ戦争状態に突入しておかしくない状態にあった。燕の領土は朝鮮にまで至り、長大な領土を有している。斉は虎視眈々と、燕が有する肥沃な大地を掠め奪ろうと狙っているのだ。
斉は常に燕を不庸国の如く見下し、高圧的な外交を仕掛けてくる。いわば、燕にとって斉は不俱戴天の敵に等しい。
だが、実際斉と燕には大きな国力の差がある。しかし、斉がそう簡単に軍を出師できないでいるのは、燕が秦の女婿の国であるからである。燕王が妻として、秦の公女を娶ることで、両国は同盟関係となった。無論、之には秦の思惑がある。燕と結ぶことで、斉の西進を抑えこもうと云うのだ。
この頃、周の天子の神威は、尾羽打ち枯らしている。諸侯達は落魄した天子に取って変わり、中原を得ようと躍起になっている。その機運は、西の秦と東の斉が最も顕著である。
「いや。軍の動きではない。調べて欲しいのは物の流れだ」
「物の流れですか?」
「不穏なのは東の斉ではなく、薊の市中よ」
時に姫平は、驚くほどの嗅覚の鋭さを発揮する。そして、阿呆に見えてそうではない。頭の切れは尋常ではなく、秦開が手を伸ばしても届かぬほどに気宇広大なのである。
己の理解を越える範疇で、姫平は思惟を巡らせている。故に、秦開は諾と答えた。
「では頼む」
姫平は相好を崩すと、従者を呼び、燕王の元へ向かう、支度を整えた。
短く挨拶を済ませ、房を後にする。
「胡乱なのは東の斉ではなく、薊の市中か」
扉を背にして、姫平の言葉を反芻する。総身を這うような悪寒が走った。
「不吉なことが起らねば良いが」
秦開は独りごちり、その場を後にした。
大仰な深呼吸に房を警護する、二人の衛士が、「将軍、大丈夫ですか?」と声を掛けてくる始末。秦開はぎこちない作り笑いを浮かべ、「何てことはない」と返す。
「秦開将軍がお見えでございます」
衛士が高らかに、扉の奥にまで聞こえるように告げた。
わざとらしい空咳が鳴る。
「通せ」
よく透る声で宣う。
扉が重低音を響かせて開いた。房に満ちていた香の馥郁とした香りが押し寄せてくる。
「どうした、秦開?今日は一段と顔が険しいぞ」
蒼裙の裾をはだけるほどに股を開き、脇息に凭れかかる姫平はあっけらかんと告げる。
「白々しいですぞ。若」
秦開の岩を想起させる顔が、憤懣で更に角ばっていく。
「さて。何のことか」
あろうことか姫平は、此方の神経を逆撫でするように、鼻の孔をほじり、欠伸までし出す始末。見る見る内に、陽に焼けた秦開の肌が赤黒く変色していく。
「貴方様は未だご自身の御立場を理解されていない」
また始まったと。姫平は嘆息し、斜を向く。
「貴方様は偉大なる燕王の御令孫であらせられるのですぞ。何度も申し上げますが、為政者としての教育を受けるのは、貴方様の義務なのです。それなのに、貴方は黄元殿の講義を抜け出し、裋褐(粗末な服)を纏い、高貴な身分を貶め、負郭の娼館で女色に耽溺する始末」
庶子平の教育係を任されている、秦開にとって、これほど情けのないことはない。
秦開は四十半ば。妻との間に、一人の息子をもうけはいるが、本心はこの馬鹿王子も実の子供同然に愛くるしい。だからこそ、余計に情けなく虚しくなってくる。いつしか怒りは消え、秦開は滂沱の涙を流していた。
「やめろ。泣くな、秦開。お前こそ、この燕国の大司馬(軍の総帥)なのだぞ。人前で涙など流すな。みっともない」
具足の内から布切れを取り出し、きーんと鼻をかむ。
「軽挙妄動は控えて頂きたい」
嗚咽を堪え、秦開は震える声で言った。
「歳をくうと、それほどに人は涙脆くなるものなのか」
姫平はやれやれと立ち上がり、秦開の丸くなった背を優しくさすり、榻の上に座らせてやる。
「なぁ、秦開。俺のことで神経質になるな。所詮、俺は庶子の一人に過ぎん。俺は好きなように生きたいのさ」
姫平は席次の低いー。いわゆる賤妾の子だった。彼の父―。太子噲は色狂いとして有名で、十代前半の頃から、女体に耽溺し、三十人を超える子を成している。席次の低い妾の子に、王位継承権はない。嫡流から外れた彼等を庶子と呼ぶ。
一般的に庶子は公宮において、白眼視されることが多い。王位継承権を持つ公子達は、賤しい女の子として蔑み、憚らず穀潰しなどと悪罵する。秦開してみれば、公子達もそうは変わらない。ただ偶然、席次の高い妃妾の子として生まれただけで、働きもせず、搾り取った民の膏血で安逸を貪っている者が殆どである。
背をさする手をとめ、姫平は嗚咽を漏らす、秦開の隣に腰を下ろした。
「お忘れか。大王様は太子である、貴方の父君でなく、庶子の一人に過ぎない、貴方様に護国の剣を下賜されたのですよ」
秦開は涙の滲む充血した眼で、衝立の傍で無造作に立て掛けてある、剣格に二つの宝玉が填った剣を見た。
この燕国には、歴代君主に受け継がれる三つの神器なるものがある。一つめは白虎裘、二つめは烏号と呼ばれる神弓。この二つは、周の武王が始祖召公奭に下賜したものである。特に烏号は、神代の黄帝が愛用し、神竜に乗って天へと昇る際、別れを惜しむ地上の人々に残した弓と伝わっている。
そして、最後は現燕王が庶子平に託した護国の剣。この剣についての仔細は、歴代の君主の座についたものにしか語られていない。先の二物と違い、明確な伝承は残されていない。
だが、白虎裘と烏号が、宮殿の天地を祀る祭殿に保管されているのに対して、護国の剣は歴代の君主が受け継いでいくことになっている。つまり、先君より護国の剣を託されたものこそ、次の君主となる。病床にある燕王が、庶子に過ぎない孫の姫平に護国の剣を託した。本来、剣を託すのならば、太子噲が至当というものだ。
燕王は太子を廃嫡し、孫の姫平を新たに太子へと冊立するつもりなのだろうか。だが、臥せる燕王は何も語らず、太子噲への廃嫡の動きもない。今、燕の都である薊の宮中は、気味が悪いほどに森閑としている。新たな王に付き、既得権益を保持したい佞臣共が、息を潜めて趨勢を静観している。
太子噲は狂宴濫行を好む、凡愚であるが、君主の座にあまり興味を喚起していない。息子の姫平も同様に護国の剣を託されたことで、自身が正統な後継者だと主張することもない。本来ならば、骨肉相食む政争が繰り広げられていたことだろうが、両者とも幸い君主の座に関しては、恬淡であった。
一度、冊立された太子が廃されることになれば、国は多いに擾るる。だが、燕王は分別がある為政者である。後継者争いによる騒擾で滅びた国は幾つも存在する。其れを知らぬ燕王ではない。何故、己の命が風前の灯である時、太子に託すべき護国の剣を、一庶子である姫平に託したのか。この所、秦開の胸中には獏とした不安ばかりが拡がっていた。
姫平は護国の剣を執り、装飾のない黒鞘から刃を抜き放った。錆を纏った刀身が露わになる。彼は剣格に嵌った蒼と黒の玉をつらつらと眺める。
秦開は榻から飛びのき、床に額ずく。軍人が軽々しく直視して良いものではない。王の分身とも呼べる、霊験あらたかなものだ。なのに、当の持ち主ときたらー。
「こんな鈍らに何の価値があるというのか。女の柳腰すら斬れるか怪しいものだ。爺様は、何故、このようなものを俺に託したのか」
と悪態をつき、まるで玩具のような扱いで空を斬ってみせる。驚きのあまり秦開は、言葉に窮した。霊験あらたかな、古の為政者達の魂が宿った宝剣を、これほどに雑に扱う愚か者は存在しただろうか。
「これのせいでつまらぬ揣摩憶測が宮中で流れている。迷惑も甚だしい。俺に王など務まるはずはないのだ。爺様も職のような勤勉な孫に託せば良いものを」
姫平は憤懣をぶつけるように、荒々しく剣を鞘へと戻した。秦開は眩暈を覚え、気が遠くなるのを感じた。視界が暗転していく。
その時、扉が開く音がした。傾いた秦開の躰を、優しく受け止めてくれる者がいる。
「子之殿」
玲瓏な女子のような顔が眼の前にあった。陶器のような白い肌に、桃色の唇。艶のある美髯。切れのある眼が和らいでいる。
「お気を確かに。秦開将軍」
己を受け止めた美青年に、頬が赤らむのを感じた、秦開は慌てて立ち上がり拱手する。流麗な動きで、子之は拱手を返した。
「父上の薬篭中物が何の用だ?」
強い口調で姫平は尋ねる。声音は険を含んでいる。
子之という青年官吏は、太子噲の唾壺係から成り上がってきた者であった。その素性は明らかではないが、今や太子噲は子之をまるで愛妾のように片時も離さない。
太子噲は鶏姦の気がある。彼の出世には、端麗な容姿が多いに活躍したのかもしれない。だが、彼は容貌だけで成り上がってきた男ではない。頭脳明晰かつ機略雄大。そして、太子噲を通して、人脈を拡げ、今では宮中一に顔が広い。人脈を侮るなかれ。時に強い後ろ盾を得る者は、王以上の権を持つ。飛ぶ鳥を落とす勢いで力をつけた子之であるが、きな臭い噂は聞かない。清廉潔白―。其れを体現したような男が子之である。
「大王様が御呼びで御座います」
蒲柳を窺わせる青年が、拝を重ね、長揖する。姫平は何も返さない。己に向けられる敵愾心を意に返すこともなく、子之は眼許に笑みを刻む。
「何故、父の側近であるお前が、それを?」
「大王様の謁見を済ませたばかりなのです。下の者を遣わせれば、煩雑な手間が多い。故に不肖子之が参ったしだいで御座います」
「ほう、ご苦労なことだ。遂には、その美貌で爺様を篭絡したか」
姫平が笑語する。
「大王様を篭絡など。有り得ませぬ。下賤の身である私は、大王様のご尊顔を拝するだけで、瘧を起こしたような躰が震えてしまうのです。篭絡などとても」
子之は目尻を下げ、今にも泣きだしそうな顔になる。なんと蠱惑的な相貌だろうか。彼の悄然とした姿を眼の当りにすれば、市中の女子は競うように、彼を慰めることだろう。
「ちっ、気勢が削がれた。もういい、去ね」
姫平は背を向け、独座に向かう。その手には護国の剣がある。
「では。之にて失礼致します」
再び長揖する子之。持ち上げて重ねた両手。垂れ下がる朝服の袖の隙間から、鋭い刃の如き眼が光ったような気がした。そして、その視線の先にはー。護国の剣がある。まるでその眼つきは、豺狼のように卑しい。まさかと思い、瞬くと、子之の眼はいつもの穏やかなものに戻っていた。
一礼し去る子之に、秦開は老練の軍人らしく、固い拱手で返す。
「若。何故、あれほどに子之殿に冷たくあたられるのです?」
脇息に凭れかかる姫平は、不満顔で、
「奴からは狡猾な獣の匂いがする」
と言った。
「獣の匂いですか」
首を傾げる。子之は燻した香草のかぐわしい匂いを纏ってはいた。だが、不意に思い出す。袖の隙間から覗かせた、子之の異様な眼つきを。
「お前は千軍万馬の猛将だが、人の本質を見抜く炯眼を持ち合わせていない」
秦開は軽く吐いた、若き庶子の言葉に気色ばむ。
「何を申されるか。私が見込み鍛え上げた兵士達は、一様に戦場で赫赫たる功績を挙げております」
認めたくはないが、姫平も、己が見込んだ一人であった。常に飄々と振る舞い、宮中ではうつけとものと評される姫平には、瞠目に値するほどの軍才が宿っている。
体術、剣術、弓術、馬術―。その全て既に絶技の域にある。彼が王の血を引くものではなく、武門の子としてこの世に生まれ落ちたのなら、戦国七雄随一の軍人になれる可能性を秘めている。不羈奔放な庶子に翻弄されながらも、秦開は赤心から、姫平に愛情と忠義を抱いている。
「文官と武官は同じ生き物と考えぬことだ。例外もあるが、往々にして奴等は、仁義の心を持たず、小利に誘われて、翩々と尽くす相手を変えるような輩だ。だが、自己韜晦は武官より遥かに巧い」
「子之殿がそうだと」
姫平は上体を起こし、秦開と向き直った。飄然とした表情は消え、真一文字に唇を結ぶ。秦開の肌が粟立った。
(この顔だ。時折、見せるこの真剣な表情からは偉器を感じる)
収斂されていく気配。この若き庶子は、万を超える白刃を潜り抜けてきた、宿将秦開でさえ竦みあがる気魄を時に放つ。
「宮中でのし上がってきた者に、手を汚していない者などいない。誰でも探りを入れれば、黒いものは浮き上がってくる。しかし、あの優男にそれはない。俺の目が曇り、本当に奴が神の如き清廉潔白な男なのか。そうでなければー」
言葉を切った姫平は、膝を強く叩く。
「秦開。東の情勢を調べて欲しい」
「東―。つまり、斉ですか?」
斉は燕の南東に位置する、山東地方の大国である。六十万を越える精兵を有し、領土は包囲二千里を超える。西の秦と東の斉―。この二国が七雄で頭一つ飛び抜けた国力を有している。
「斉に胡乱な動きがあると?」
燕と斉はいつ戦争状態に突入しておかしくない状態にあった。燕の領土は朝鮮にまで至り、長大な領土を有している。斉は虎視眈々と、燕が有する肥沃な大地を掠め奪ろうと狙っているのだ。
斉は常に燕を不庸国の如く見下し、高圧的な外交を仕掛けてくる。いわば、燕にとって斉は不俱戴天の敵に等しい。
だが、実際斉と燕には大きな国力の差がある。しかし、斉がそう簡単に軍を出師できないでいるのは、燕が秦の女婿の国であるからである。燕王が妻として、秦の公女を娶ることで、両国は同盟関係となった。無論、之には秦の思惑がある。燕と結ぶことで、斉の西進を抑えこもうと云うのだ。
この頃、周の天子の神威は、尾羽打ち枯らしている。諸侯達は落魄した天子に取って変わり、中原を得ようと躍起になっている。その機運は、西の秦と東の斉が最も顕著である。
「いや。軍の動きではない。調べて欲しいのは物の流れだ」
「物の流れですか?」
「不穏なのは東の斉ではなく、薊の市中よ」
時に姫平は、驚くほどの嗅覚の鋭さを発揮する。そして、阿呆に見えてそうではない。頭の切れは尋常ではなく、秦開が手を伸ばしても届かぬほどに気宇広大なのである。
己の理解を越える範疇で、姫平は思惟を巡らせている。故に、秦開は諾と答えた。
「では頼む」
姫平は相好を崩すと、従者を呼び、燕王の元へ向かう、支度を整えた。
短く挨拶を済ませ、房を後にする。
「胡乱なのは東の斉ではなく、薊の市中か」
扉を背にして、姫平の言葉を反芻する。総身を這うような悪寒が走った。
「不吉なことが起らねば良いが」
秦開は独りごちり、その場を後にした。
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神の怒りに触れたかのように、黒い灰は空を塞ぎ、郷も田畑も人の営みも、容赦なく呑み込んでいく。噴火と飢饉が藩を蝕み、救いを求める声の裏で、名もなき影が蠢いた。灰の夜を踏むのは、血も温もりも失った“黒屍人”。誰が、何のために――。
その災厄に呼応するように、忍びの郷に封じられていた「十二輝の干支の珠」が、ひとつ、またひとつと眠りから解かれる。
珠は器を選び、器は力に喰われ、力は人を裏返す。
伊賀と甲賀の長い因縁、奪われる珠、引き裂かれる同胞。
そして、灰の国で拾い集められていく十二の輝きが揃う時、世界の秩序そのものが――動き出す。
【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』
月影 朔
歴史・時代
江戸の長屋から、奇妙な事件を解き明かす! 発明家と世話焼き娘の、笑えて泣ける人情捕物帖!
江戸、とある長屋に暮らすは、風変わりな男。
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そんな甚兵衛の世話を焼くのは、隣に住む快活娘のお絹。仕立て屋で働き、誰からも好かれる彼女は、甚兵衛の才能を信じ、持ち前の明るさと人脈で町の様々な情報を集めてくる。
この凸凹コンビが立ち向かうのは、岡っ引きも首をひねる不可思議な事件の数々。盗まれた品が奇妙に戻る、摩訶不思議な悪戯が横行する…。甚兵衛はからくり知識と観察眼で、お絹は人情と情報網で、難事件の謎を解き明かしていく!
これは、痛快な謎解きでありながら、不器用な二人や長屋の人々の温かい交流、そして甚兵衛の隠された過去が織りなす人間ドラマの物語。
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