楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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鵬程万里

 一

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 楽毅がくきは双丘の狭間で、清籟せいらいに身を委ねていた。
 
 双の眼を閉じる。眼下から迫る、馬蹄の響きが意識から遊離する。
 意識を己の淵源えんげんに委ねる。

 
 潜在意識下で、楽毅は心の眼を開いた。

 空を仰ぐと、其処には豁然かつぜんと拡がる蒼空がある。
 
 雲一つない無窮の空に、突如として視界を覆うほどの影が現れた。

「大鵬だ」

 楽毅は清明な双眸を、満天の蒼空へと向けた。
 万里に至る影である。中山国を覆い、北は胡地。南は楚の地にまで影は届くだろう。
 
 颶風ぐふうが起こった。黄塵こうじんが巻き上がる。細かな砂の粒子が眼を襲い、咄嗟に瞼を閉じる。

「おい、どうした。大丈夫か?」
 友の声が蒼き世界に反響する。
 
 意識が核に戻る。

「なに呆けてやがる」
 
 視界には黄塵はなく、ただ雲霞うんかの如し軍勢が虚しく拡がっている。 

 覚醒した視界に飛び込んできたのは、墨を暈したような空と、黄塵こうじんに塗れる雲霞の如し軍勢であった。
 
 両脇に並ぶのは、友の司馬炎しばえん魏竜ぎりゅう

「まさか、此処に来て怖気づいた訳じゃないよな」
 半眼で司馬炎が言う。

(あれは白昼夢だったのか)
 だとしても、千里の白翼をはためかさる、大鵬の姿はあまりにも、鮮烈に記憶に残っている。
 弁明した所で、一笑されるのがオチなので、不随意な笑みで濁す。

「俺が怖気づくともでも」

「だよな」
 司馬炎は呵々かか哄笑こうしょうし、強く楽毅の胸を拳で叩いた。

「俺達、本当にやるんだな?」
 魏竜は顔面蒼白で、今にも吐きそうな勢いだ。

「ああ」
 怨顔おんがんを眼下に向ける。千尋の谷の下では、鈍銀のよろいを纏った、趙兵が九十九折りつづらおりの険道に整然と進んでいる。

 趙の黒旗が翩翻へんぽんと翻る。

「あれが趙与ちょうよの軍だ」

「五万はいるよな」
 魏竜の声音は、暗澹あんたんとしている。
 五万を超える大軍は、中山の都である霊寿れいじゅより南約百里(五十キロ)に位置する、陘山けいざんへと向かっている。

 陘山と霊寿の間には、中山の領土を東から西へと分断するように流れる河川。呼沱水こだいすいがある。
 名の由来は一帯に雨量が多く、流れの勢いが凄まじく、まるで滂沱ぼうだの涙を流しているように見えることからー。と言い伝えられている。
 
 だが、小国中山にとって、暴河は自然の障壁の役目を果たす、有難い河川なのである。
 
 そして、陘山には堅牢な要塞が存在し、霊寿に至るまでの二重の障壁となっている。
 現今、中山を滅ぼさんと攻め込んできている、趙軍は中山の十倍以上の兵力を用いて、四方から攻め込んできている。

 隣接する趙の王―。武霊王ぶれいおうの眼は天下を捉えている。
 
 現在、中国には強力な軍事力と国力を有する、七つの大国がある。
 秦。楚。韓。魏。趙。斉。燕。
 
 かつては、今も洛陽らくよう洛陽に都に構える周が、百を超える諸侯の統率者であった。
 いん の紂王ちゅうおうを最期に殷は滅び、武王が周を興国した。
 
 だが、時代の変遷と共に周の力は衰え、数多の内紛で周は西と東へと分断された。
 之がきっかけとなり、稟性ひんせきのある諸侯が頭角を現し、覇権を争うようになった。
 
 やがて、春秋時代には百余国あった国々は、時代の荒波に呑まれ、強国に次々と併呑されて行った。
 そして、現今も存在し続ける七雄と呼ばれる国々が、争乱の時代を生き抜いてきた、万乗ばんじょうの大国なのである。

しかし、争乱は尚も続く。七国の王は、今や形骸化した周宗室に変わって、真の意味で中華の支配者となることを望んでいる。澎湃ほうはいとした新時代の気運が中華全土に横溢している。

 そして、趙の武霊王は、新時代のさきがけといえる。

 隣接する小国中山を滅ぼした後、その領土を併呑し、北朔ほくさくの国(燕)と東の斉への道を切り拓かんとしている。
 
 北東の平定の後、武霊王は魏と韓。そして、西の強秦へと軍を向ける胸算用している。
 武霊王にとって、中山国など通過点に過ぎない。
 侮られている。楽毅は己が侮蔑されているような気がしてならない。

(武霊王。貴様の思う通りになると思うな。中山には俺がいる)
 心の中で勇む。

 だが、現実は虚しく、楽毅は無名の将であった。いや。実際の所―。将でもなく、ましてや兵士でもない。
 官位も爵位もない、十五歳の少年に過ぎない。
 
 楽毅を取り巻く、司馬炎、魏竜―。そして百名余りの少年達も同じである。
 危険を冒した胡地から奪った、革の甲を身に纏い、さながら騎馬民族の風体を成した仲間達に熱い眼差しを向ける。

「さぁ、親父達を吃驚びっくりさせてやろうぜ」
 司馬炎の気炎が揚がる。

「騎乗せよ」
 楽毅の合図で、百名の少年兵が馬に騎乗する。
 銘々が頭である、楽毅を見据える。
 先ほどまで脅え震えていた、魏竜も覚悟を決めている。

「侵略者共を駆逐するぞ」
 颯爽と馬の背に飛び乗る。軍旅ぐんりょも持たない。無名の一団は、凡そ馬が駆け降りることのできないほどの九十度の崖を猛然と駆けた。

 楽毅は先頭で勇を鼓して、剣を抜き放った。 勇める総身は、まるで背中に二つの翼が生えたかのように、軽かった。






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