楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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鵬程万里

 二

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 五万の歩卒を預かる、趙与ちょうよの眼に、信じ難い光景が飛び込んできた。直角の壁を走る砂塵。当然、騎馬隊などとは思わない。
 
 あの角度を駆ける馬。それを制御する騎手などー。
 砂塵の中で何かが煌めいた。鈍い鉄器の光。
 戦慄せんりつが走る。同時に刹那の間、自失した己を呪った。

「敵襲‼」
 叫んでいた。斥候は随時、放っていた。慢心もないと言い切れる。確かに中山は小国。趙の軍事力を以ってすれば、容易く陥とせる。
 
 だが、生来、趙与は神経質な男だ。だからこそ、乱世でも生き抜くことができている。

 だからこそ、予想の範疇はんちゅう超える、突発な出来事には苛立つ。
 縦に長く伸びた軍列。幅が狭く、複雑に絡み合うように走る山道。
 更に眼下には、深淵の谷。

(最悪だ)舌を鳴らす。
 
 衝突音。軍がみだるる。
 後方から悲鳴と鉄音。兵士達が奈落へと落ちていく。
 敵の数はそう多くない。だが、奇襲で兵の統率が乱れている。
 目算百騎。この情況においては、二倍、三倍の力を発揮している。

「来ます!」
 副官が叫んだ。

「馬鹿な」
 趙与がいる中央までは、厚い肉の壁を越えて来なくてはならない。

「ありえん」
 と零した刹那。見えた。

 喊吶とっかんして進撃する十数騎。我が眼を疑った。勇猛果敢に得物を振るう中山の兵士。その全てが年端もいかない少年なのである。
 
 胡服こふくと称される、夷伙いてきの甲を纏い、短弓から放たれる見事な騎射で次々に兵士を打ち倒していく。
 
 肉薄すると、彼等は剣へと得物を切り替える。
 貌を血に染めた、先陣を切る少年と眼が合った。剛矢に射貫かれたような気魄があった。少年の裂帛れっぱくの咆哮が轟く。天地鳴動させるほどの、武威が放たれる。
 
 趙与は反射的に剣を抜いた。眼前の少年が視界から消えていた。

「趙与‼」
 天から雄叫びが降り注ぐ。影。仰ぐ。少年は日輪と重なるように空を翔んでいた。斬光一閃。
 袈裟に強烈な痛みが走る。
 少年が地に降り立つ。再び視線が交錯。

「仕留めそこなったか」
 少年は吐き捨てた。

「退却‼」
 趙与が深手を負ったことで、軍は依然と統率を欠いていたが、少年の号令で馬を駆り、拓いた後方へと突き進んでいく。

「次は趙王の首を貰う」
 少年は高々に宣言すると、一団と共に駆け去って行った。
 気持ちが良いほどの手際であった。敵の虚を突く充分な奇襲。そして、敵将の首に執着することなく、形勢が危うくなる前に退却を命じる、淡泊な闘争心。

「殿」
 
 風のように去った、一団を呆然と見送る趙与の首に、副官が布を押し付ける。

「もう少し深ければ、私は死んでいたな」
 ふっと微笑が零れる。副官は怪訝な表情だ。
 
 遅かれ早かれ、負傷の報は軍吏ぐんりによって、王の元に届けられるだろう。
 王は尚武しょうぶを重んじる。故に負傷の責を問われるであろうがー。

「王はあの少年を気に入るに違いない」





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