楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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蒼き鎧

 四

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 「来たか」
 董は迫る、雲霞の如し軍勢を歩墻ほしょうの上から睨む。
 
 不思議と怯懦はない。共に戦う、勇敢なる戦士達がいる。その事実が、胸の内に燻る、懼れの萌芽ほうがを摘み取ってくれる。

「来い。趙軍」

 開戦。竜が火焔を吐くような、猛烈な攻撃であった。趙軍は此方を休ませまいと、人海戦術で昼夜問わず攻撃を仕掛けてきた。

 十日間、一万の兵士達は一睡もすることもできず、ひたすら防禦に徹した。
 十一目には、兵の疲弊は極みに達していた。

「拙いな」

 楽毅自身も全身に浅手を受け、意識も朦朧としていた。兵士達の鋭気は疲労により、低下の一途を辿っている。

「くそ。廉頗め。憎いことをしてくれる」
 転じて趙軍の鋭気は満ちたまま。数の利があるので、交替で兵を休ませることができる。

「楽毅。返事は?」
 司馬炎である。友の眼許には濃い隈が浮かびあがり、頬は刃で削り取られたかのようにこそげ落ちている。

「まだない」
 董から楽毅の父に救援を依頼する書簡を送っている。中山王が頼りにならないのなら、楽毅が頼みとできるのは、宰相である父である。 
 
 趙軍が布陣する前より、霊寿にいる父に向けて、董は幾度も書簡を送っている。だが、梨のつぶてである。

「お前の親父は、息子がどうなっても良いっていうのかよ!」
 司馬炎が怒りに任せて女墻ひめがきを殴りつける。
 
 そんなはずはないと言いたい。だが、断言できない自分がいる。
 母が物心をつく前に死去し、唯一の肉親は父だけになった。父は宮廷に出仕していることが多く、年の半分以上は館に帰ってくることはなかった。
 
 帰宅したとしても、父は疲れ切っていて、幼い楽毅に眼をくれようともしなかった。二人を繋げていたのは、父子の絆ではない。血という現実的な羈絆きはんである。
 
 中山王の不興を懼れ、楽毅を見捨てたとしても、何ら不思議はない。それほどに、父子の関係は冷え切っている。    

 孤独な時間を埋めるように、幼少期から共に時を過ごしてきた、司馬炎や魏竜の方がよほど家族に近い。
 何処か冷めた眼を向ける父の面影を振り払おうと、矢を番え、梯子を掛けようとする、眼下の趙兵に放つ。眉間に矢を受けて、趙兵は崩れ落ちる。


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