楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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麒麟の心

 一

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 孫師そんしが地図の上にある、すいの駒を進めた。

「趙へ行くか。何故、趙なんだい?」
 田単でんたんは手許に視線を移すことなく、相対するように、同じく帥の駒を進める。

「うっ」
 と孫師の苦悶の声が漏れる。

三晋さんしん(趙・魏・韓)の内、最も勢いのある国は何処だとお考えですか」
 趙・魏・韓は、かつて晋という国の元に纏まっていた。
 しかし、時代の変遷と共に、晋公室の権力は弱まり、かねてより朝廷の運営を任されていた、六卿りくけいの力が公室を凌ぐようになる。その六卿とはー。
 
 欒氏らんし荀氏じゅんし士氏しし。趙氏。韓氏。魏氏。からなる六つの氏族である。後に欒氏は滅亡。荀氏と士氏は衰退。残った三氏は、周の天子より諸侯に列され、晋公室との君臣関係は解消となり、韓・魏の連合軍が晋を滅ぼし、三氏で晋の領土を分け合った。之が趙・韓・魏の国を三晋と呼ぶ由来である。

「趙だろうね」
 孫師は眉間に深い皺を寄せ、彫像のように動かない。周璧に囲われた、孫家塾のほうぼうから武芸に励む、門下生達の威勢の良い掛け声が、広大な中庭の隅に設けられた、望楼ぼうろうにまで達する。
 
 普段、望楼には警備を担当する門下生が詰めている。何故か孫師は、見張り台として設けられた、東の望楼に田単を呼び出すことが多かった。きっと此処から一望できる、臨淄りんしの景観が気に入っているのだろう。
 
 孫家の館は、東門を抜けた、田氏が所有する領地の内にある。斉王朝は田氏によって支配されている。事実、朝廷の上層部には田の氏を持つ、官吏が数多いる。

 孫家一門に土地を貸し付けている、田氏の一人である孟嘗君田文もうしょうくんでんぶんもまた、先々代威王いおうの孫であり、公室との縁は強い。
 
 孟嘗君は食客を三千以上抱える、侠気の人で、朝廷においても強い影響力を持つ。また民からの人望も厚く、驕慢きょうまんなる斉王より、孟嘗君の人気が高い。
 
 直近の話では、孟嘗君の人格に魅入られた、秦の昭襄王しょうじょうおうが、宰相の位を用意して、孟嘗君を秦に招いた。しかし、昭襄王は孟嘗君の登用に嫉妬を抱いた、家臣の讒言を間に受け、あろうことか、孟嘗君を獄に落とした。

 その後、孟嘗君は持ち前の機転と同行していた食客の働きもあり秦を脱した。孟嘗君は秦の非道な振る舞いに激怒し、秦へ向け、出師することを決意。帰国後、孟嘗君は秦を伐つ為、諸国巡り合従策を説いている。
 
 孟嘗君の雷名は、今や山東に限らず轟いている。諸国の君主も、孟嘗君が自ら出向いたとなれば、無碍にもできない。近々、秦に対する合従軍が起こると、田単は考えている。
 
 それほどに孟嘗君が持つ、影響力とは冠絶かんぜつとしたものなのだ。斉が今でも富国であり続けられるのは、王を輔弼ほひつする孟嘗君の力によると所が大きい。
 
 孫家が田氏の土地を間借りすることを許されているのは、偏に孫師の祖先にあたる、兵法家孫臏そんびんと田氏の関わりが深いからである。

 孫臏は斉の威王に仕え、田氏の傍系である、田忌でんき将軍と共に、斉に隆盛を齎した。
 以後、斉王朝からの孫家の扱いは格別となり、百を超える田氏の分家の若き嫡子や庶子が孫氏の兵法を学ぶ為、次々に孫家塾の門を今日も叩く。
 
 田単自身も田氏の傍系である。だが、田氏の傍系は稀有な存在ではない。田氏のたねは、播種はしゅが如く撒かれ、臨淄だけでも数百の田氏が存在する。その中でも田単の家系は、傍系の末端にあった。

 暮らし向きは平民を変わらない。むしろ、困窮しているといっても過言ではない。父は下級の役人であるし、母は農家の出である。だが、田単自身貧しさを苦と感じたことはない。薄給で孫家塾に通わせてくれている、両親に感謝の念すらある。
 
 そして、家の貴賤を問わず、田単を愛弟子として眼をかけてくれる、孫師にも感謝している。田単は祖父に向ける、敬愛で満たした眼差しを、ひたすらに頭を悩ませる、恩師へと向ける。

「趙は面白い国です。というより、趙王―。その人が愉快なのかもしれませんね。以北の領土を切り拓く為に、家臣達の反対を押し切って、胡服騎射を軍に取り入れ、趙王の改革によって、既存の兵法の在り方がまるで変ってしまった」

「兵法の根本は、幾星霜と年月を重ねようが変わらないよ」
 孫師の顔は渋いままだ。田単はふっと笑み、

「先生。もう詰んでますよ」
 と告げると、「何!?」と大童おおわらわで地図を食い入るように見つめる。

「また敗けたか」
 孫師は童のように潮垂れる。だが、瞬時にして、平静を取り戻し、刃のように鋭くなった眼を向けた。

「趙は荒れるよ」
「何故です?」
 竹を割るが如く、孫師は断言してみせた。田単には理解できなかった。趙は強勢である。
 ここ数年で、趙の情勢はめまぐるしく動いている。

 武霊王ぶれいおう太子何たいしか恵文王けいぶんおう)に王位を譲った。併せて太子であった、しょうは廃嫡された。
 恵文王は幼年なので、武霊王自身の師とも呼べる、貴臣肥義ひぎ相国しょうこくに任じて、何の傅役もりやくとした。

 王位を退いた、武霊王は自身を主父しゅほと称するようになる。なおも年少の恵文王に変わって、主父による寡頭政治かとうせいじは継続されていたが、王位を退いたことで、主父自身は身軽となった。主父は退位後、自ら胡服を纏い、軍を率いて侵攻。

 趙軍は中山の都霊寿れいじゅにまで至り、焦った中山王シシは斉に落ち延びた。だが、逃走中の傷がもとで、数週間後に殞命いんめい
 
 後に、太子尚たいししょうが中山王として即位。だが、彼は霊寿に籠ったまま、督戦を拒否。
 
 王に変わって、公子董こうしとうが残存兵力を取り纏め、反攻するも、虚しく中山国は滅ぼされたのである。公子董は討死。中山王尚は捕虜となり、膚施ふしの地に流されている。 
 
 そして、趙は中山国の領土を取り込み、趙の北地と定め、代へと属された。主父の当初の狙い通り、北への道が大いに拓いたのである。道は整備され、やがて燕へと続く軍道へと変わるのだろう。
 
 帰還後、主父は先祖の霊を祀り、大赦たいしゃを行い、廃嫡した章を代に封じて、安陽君あんようくんとした。

 孫師が危惧を抱く要因が、田単には分からない。回顧するに、趙の現状は順風満帆といえるのではないだろうか。

「世には天が定めた綱紀こうきが循環している。それは、私達の眼で捉えることは叶わないが、確かに存在している」

ことわりということでしょうか?」

「理とは所詮、人の器で測るもの。しかし天の綱紀は違う。其処には神性が宿っている」

「主父は天の綱紀を蔑ろにしたと」

「太子の冊立は、万民、先祖の霊、そして、天界におわす天帝に名言するもの」

「つまり、主父は太子章を廃嫡したことによって、天譴てんけんを下されると」
 老いによって、白濁した瞳が昏い色を湛える。

「主父だけに下されるのならまだ良い。時には、民すらも巻き込むことがある」
 超然とした話で、理解が追い付かないでいる。

「ですが」

「行きたいのだね?」

「はい」

「何故だ?君は明晰な子だよ。ここだけの話、私の抱える弟子の中で二番目に出来が良い」
 孫師の表情が、ぱっと明るく変わる。

「二番目ですか」
 嬉しいやら、悔しいやら複雑な感情が胸中に渦巻く。

「田単は幾つになったかな?」

「十六歳なります」
「君は優秀だ。例の件、考え直したらどうだい?」
 孫師は手蔓を使って、田単を将校に推挙するつもりでいる。宮廷にも、孫師のかつての弟子が多くいる。孫師の口利きがあれば、百人を束ねる卒長程度になら、段階を踏まずとも、就くことができるだろう。
 
 しかし、現今の田単に軍人となるつもりはない。勿論、孫師の推挙を甘んじて受ければ、相応の禄を得ることができ、両親に楽をさせてやることはできる。戦場で命を対価とする分、卒長といえど、下級役人よりは禄が良いのだ。
 
 だが、田単は第三者に提示された道を生きたくはなかった。運命とは自身で切り拓いていくものだと思っている。
 田単は斉という国が好きだ。孫師がいて、両親がいる。当たり前のことだが、故郷を大切に想う心の始まりとは、そんなものだ。

 今は戦乱の世。隣接する趙は昇竜の如き勢いで力をつけ、燕は北地で跳梁する、東胡とうこを破り、千里も退け、長城を築いた。

 虎狼ころうの国、秦は楚を伐ち、南に大きく版図を伸ばしている。秦を支配する、昭襄王の野心はとどまることを知らない。洛陽らくようにおわす天子さえ、圧倒的軍事力で脅かしている。
 
 斉が諸国を圧倒する国力を有していたとしても、滅びる未来がないとは限らない。この国を守りたい。だが、守禦しゅぎょする方法は、軍人となって、ひたすら他国の侵攻し、備える日々を悶悶と送ることなのか。
 
 答えはない。だからこそ、今の価値観でとどまるのではなく、自身の足で諸国を巡り、見聞を広めたい。この国を永劫と守る術の答えを、旅で得たいのである。

「先生」
 田単は口ごもる。己の将来を嘱望しょくぼうしてくれる、孫師の愛情が身に沁みる。

「いや。すまない」
 孫師は一度頷くと、老婆心ろうばしんからだと言って、微苦笑を浮かべた。

「君を視ていると、中山の弟子を思い出す」

「中山にも教え子が?」

「ああ。君達は似ているようで、相剋そうこくする存在なのかもしれない」
 田単は首を傾げる。

「彼は私が願っているように、志の翼で、世に羽搏くことを望んでいた。彼の将器には神が宿っていた。だからこそ、私は兵法家として、武力によって築ける、泰平の世もあるのだと諭したのだ。だが、君は違う。兵法を学んで上で武力に頼らず、ありとある可能性を模索し、祖国を守ろうと考えている。仁愛に満ちた、麒麟のように」

「麒麟ですか」
 麒麟は泰平の世に顕現するという、仁愛を司る神獣だ。

「君は麒麟の心を、抱く若者だよ」
 孫師の言は、何処か大仰な気もするが、麒麟の心という言葉が、総身に自然な形で馴染んでいくのを感じた。

「君が歩もうとしている路のりには、数多の困難が待ち受けているだろう。だが、艱難かんなんに屈してはいけないよ。君の探し求めている答えは、無限の艱難の先にあるのだから。この老い耄れには、君のように新しい選択肢を有していなかった。ただ父や父祖の想いを抱き続け、生き永らえてきた。だが、老いた今ならわかる。想いの数だけ、道はあるのだと。若者の想いの先に、平和へと続く道があるのならば、一つに思想に拘泥する必要はない。そう言う意味では、私はあの少年に、私と同じく、争乱へと続く道を選ばしてしまったのかもしれない」
 孫師は嘆息し、賑わいがこだまする、臨淄の空を見た。

「中山の彼は、その後どうなったのです?」
 孫師が語る、己を凌駕する才を持つ弟子とは、中山の彼のことである。だが、中山は滅亡している。
 
 孫師の白眉が、風に揺れる。

「さて。彼の一族は、中山国と命運を共にしたと聞き及んでいるが。真のことは定かではない。願わくば、何処かで息災であって欲しいものだよ」祈念するように、孫師は瞼を閉じた。
 

 名も知らない兄弟子に想いを馳せ、田単も彼の無事を心から祈った。


 







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