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麒麟の心
二
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田単は臨淄の玄関口である、正門を抜けた。掲げられた扁額を見つめ、固く拱手する。
臨淄は戸数七万を超え、人口は五十万にも及ぶ、随一の大都市である。
市中の殷賑ぶりは凄まじく、特に大通りでは竽瑟の妙音が反響し、賭博で賑わい、馬車の車輪が奏でる規則的な音は途絶えることなく、行き交う人々の肩は触れ合い、袵を連ねれば帳となり、汗を揮えば雨となる。正に肩摩轂撃の様相といえよう。
臨淄の繁栄は、海岸に面するという地理的要因も大きく関与しているが、斉の桓公を覇者へと押し上げた、宰相管仲の功績による所が大きい。
管仲は民政に血道を上げ、斉の風土を利用した、製塩業と漁業で莫大な利を挙げることに成功し、民の生活水準を高めた。
また、威王、宣王の代には貴賤問わず、中華全土から優秀な人材を集めた。やがて、栄耀栄華を極め、臨輜に千を超える学士が集うようになり、百家争鳴が起った。
近年、旭日昇天の勢いで隆盛へ導いたのは、威王、宣王であるが、臨淄の富力は現今の為政者である、閔王の御代となった今でも保たれている。
臨淄の活力が渦となり、飛竜の如く、天へと吸い込まれていく。
「行ってきます」
拱手を解き、行李の肩紐をぐっと握りしめた。
渤海の海岸線をなぞるように、田単はひたすらに西へと歩を進めた。右の視界に疵一つない海面を望みながら、踏み出す歩は軽快であった。
臨淄を経って既に十日。その間、青天白日が続いている。今の所、身の危険を感じていない。佩剣はしているものの、剣把を握る機会は訪れないだろう。と暢気なことを考える。
斉では匪賊の存在は稀有である。匪賊などは困窮した民が、追剥や殺しで、活計を得ようと仕方なくなるものだ。国が絞りとる重税で、民の暮らしは立ち行かなくなり、悪道へと堕ちる。
近国に侵攻を繰り返す、秦などは法による統治を唱えていながらも、矢銭を捻出する為に、万民に重税を課し続けているという。匪賊へと転化する、民等の数も膨大で、地方軍などは常に匪賊討伐へと駆り出されていると聞く。
自国を豊かにする為の遠征が、民に困窮を招き、国内の騒擾を齎す。皮肉な話だと思う。時の権力者達は、極みの立場でありながら、欲深く他者の物を平然と奪おうとする。
だからこそ、幾星霜の戦乱は続いている。人は業が深い。今あるべきものを愛でれば良いではないか。そうすれば、永劫の泰平が訪れるはずだ。
軽快であった足並みは、暗澹たる心地に応じて、遅々となる。足を止め、渤海に視線を転じる。空と海の蒼が綯交ぜとなり、空際が一体となっている。海岸に打ち寄せる飛沫は、陽光を受けて、雪花石膏を内包したように、一粒一粒が輝いている。
「麒麟の心か」
不意に孫師の言葉が脳裏を過る。きっと麒麟の心は、この大海のように、広く穏やかな心を持った者のことをいうのだろう。分不相応な気がするが、できれば志だけは大海のようでありたいと思う。
「さて」
孫師の聖言を胸に仕舞い込むと、田単は北と西を交互に見遣った。
北には燕。西には趙がある。
「これ以上、北に進むのはよそう」
燕が抱く、斉への怨恨は筆舌に尽くせないほどに深い。燕は跡継ぎ争いにより、国に騒擾が生じて、国内に大きな内乱が起こった。
斉の宣王は、この機を見逃さず、孟子の進言を入れて、荒れる燕に軍を差し向けた。
燕は大敗。燕の易王の代では、北は林胡、南は呼沱・易水に至るまでの広大な国土を有していたが、内乱と斉の侵攻により悉く、国土を失った。
一時は、滅亡の危機に瀕していたが、燕の昭王が即位してからは、富国強制策により、徐々に力を取り戻しつつある。騒擾に乗じて、出師し、悉く燕の領土を奪って行った、斉を燕の民は憎悪している。
あと五十里も進めば、燕の国境線が見えてくる。田単は回れ左して、北西へと向かうことを決意した。
北西にはかつて存在した中山国がある。今は主父に廃嫡されて、公子章―。安陽君が治める封地である。亡国の民達の暮らしから、安陽君の人となり、また主父の人なりが垣間見えるかもしれないと思った。
かつて敵国であった民を帰順させ統治する。其れは簡単なことではない。悪政で縛り付けるだけでは、真の意味で国土を拡大したとはいえない。
祖国を失くした民達を手厚く保護し、悦服させなくては、主父は真の為政者とはいえない。為政者は果敢でありながら、民を慈しむ侐民の心を有していなくてはならない。
「よし。行くか」
懐から麻布を取り出し開く。包みの中には帥の字が刻まれた駒を眺める。孫師との廟戦の際、使用する駒の一つを預かり受けたのである。つまりところ、旅の御守り代わりである。
旅の無事を祈念し、そっと懐に戻す。田単は亡国中山へと足を向けた。
臨淄は戸数七万を超え、人口は五十万にも及ぶ、随一の大都市である。
市中の殷賑ぶりは凄まじく、特に大通りでは竽瑟の妙音が反響し、賭博で賑わい、馬車の車輪が奏でる規則的な音は途絶えることなく、行き交う人々の肩は触れ合い、袵を連ねれば帳となり、汗を揮えば雨となる。正に肩摩轂撃の様相といえよう。
臨淄の繁栄は、海岸に面するという地理的要因も大きく関与しているが、斉の桓公を覇者へと押し上げた、宰相管仲の功績による所が大きい。
管仲は民政に血道を上げ、斉の風土を利用した、製塩業と漁業で莫大な利を挙げることに成功し、民の生活水準を高めた。
また、威王、宣王の代には貴賤問わず、中華全土から優秀な人材を集めた。やがて、栄耀栄華を極め、臨輜に千を超える学士が集うようになり、百家争鳴が起った。
近年、旭日昇天の勢いで隆盛へ導いたのは、威王、宣王であるが、臨淄の富力は現今の為政者である、閔王の御代となった今でも保たれている。
臨淄の活力が渦となり、飛竜の如く、天へと吸い込まれていく。
「行ってきます」
拱手を解き、行李の肩紐をぐっと握りしめた。
渤海の海岸線をなぞるように、田単はひたすらに西へと歩を進めた。右の視界に疵一つない海面を望みながら、踏み出す歩は軽快であった。
臨淄を経って既に十日。その間、青天白日が続いている。今の所、身の危険を感じていない。佩剣はしているものの、剣把を握る機会は訪れないだろう。と暢気なことを考える。
斉では匪賊の存在は稀有である。匪賊などは困窮した民が、追剥や殺しで、活計を得ようと仕方なくなるものだ。国が絞りとる重税で、民の暮らしは立ち行かなくなり、悪道へと堕ちる。
近国に侵攻を繰り返す、秦などは法による統治を唱えていながらも、矢銭を捻出する為に、万民に重税を課し続けているという。匪賊へと転化する、民等の数も膨大で、地方軍などは常に匪賊討伐へと駆り出されていると聞く。
自国を豊かにする為の遠征が、民に困窮を招き、国内の騒擾を齎す。皮肉な話だと思う。時の権力者達は、極みの立場でありながら、欲深く他者の物を平然と奪おうとする。
だからこそ、幾星霜の戦乱は続いている。人は業が深い。今あるべきものを愛でれば良いではないか。そうすれば、永劫の泰平が訪れるはずだ。
軽快であった足並みは、暗澹たる心地に応じて、遅々となる。足を止め、渤海に視線を転じる。空と海の蒼が綯交ぜとなり、空際が一体となっている。海岸に打ち寄せる飛沫は、陽光を受けて、雪花石膏を内包したように、一粒一粒が輝いている。
「麒麟の心か」
不意に孫師の言葉が脳裏を過る。きっと麒麟の心は、この大海のように、広く穏やかな心を持った者のことをいうのだろう。分不相応な気がするが、できれば志だけは大海のようでありたいと思う。
「さて」
孫師の聖言を胸に仕舞い込むと、田単は北と西を交互に見遣った。
北には燕。西には趙がある。
「これ以上、北に進むのはよそう」
燕が抱く、斉への怨恨は筆舌に尽くせないほどに深い。燕は跡継ぎ争いにより、国に騒擾が生じて、国内に大きな内乱が起こった。
斉の宣王は、この機を見逃さず、孟子の進言を入れて、荒れる燕に軍を差し向けた。
燕は大敗。燕の易王の代では、北は林胡、南は呼沱・易水に至るまでの広大な国土を有していたが、内乱と斉の侵攻により悉く、国土を失った。
一時は、滅亡の危機に瀕していたが、燕の昭王が即位してからは、富国強制策により、徐々に力を取り戻しつつある。騒擾に乗じて、出師し、悉く燕の領土を奪って行った、斉を燕の民は憎悪している。
あと五十里も進めば、燕の国境線が見えてくる。田単は回れ左して、北西へと向かうことを決意した。
北西にはかつて存在した中山国がある。今は主父に廃嫡されて、公子章―。安陽君が治める封地である。亡国の民達の暮らしから、安陽君の人となり、また主父の人なりが垣間見えるかもしれないと思った。
かつて敵国であった民を帰順させ統治する。其れは簡単なことではない。悪政で縛り付けるだけでは、真の意味で国土を拡大したとはいえない。
祖国を失くした民達を手厚く保護し、悦服させなくては、主父は真の為政者とはいえない。為政者は果敢でありながら、民を慈しむ侐民の心を有していなくてはならない。
「よし。行くか」
懐から麻布を取り出し開く。包みの中には帥の字が刻まれた駒を眺める。孫師との廟戦の際、使用する駒の一つを預かり受けたのである。つまりところ、旅の御守り代わりである。
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