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平原君
一
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西門を抜けると、直ぐに目当ての広大な館は、眼に飛び込んでくる。館を囲む土塀は通りに沿って、長く伸び、眼を眇めても、終わりはみえない。北辺に築かれた、長城を想起する。
館の玄関口である、門闕には武装した、衛士が四人。
「帰ったか。亡国の臣ども」
年長者の衛士が、剣呑な雰囲気を放ちながら、楽毅の前に立ちはだかる。
むっとする司馬炎と魏竜に対して、楽毅は涼しい顔で衛士と向かい合う。
紺の双眸は、じっと敵愾心を向ける、衛士を見据えている。
「ちっ」
衛士は舌を打ち、顔を背けた。
「ささっと入れ。平原君がお待ちかねだ」
楽毅は一礼して、門闕を潜る。
三人が潜り終えると、
「生き恥を晒す、不忠の臣どもめ。中山と共に朽ち果てれば良かったものを」
衛士の一人が唾棄する声が聞こえた。
「放っておけ」
司馬炎の瞳孔は今にも、斬りかかりそうなほど開いていた。
主父の子であり、趙の恵文王の弟である、趙勝ことー。平原君は、斉の孟嘗君に匹敵するほどの食客を抱えている。中庭には武芸に励む、豪傑然とした者達が数多おり、母屋の縁側では、陰陽家や易者、楽者達などの姿も見かける。
彼等は一様に、楽毅一行を白眼視する。囁き声で悪罵する者。冷ややかな眼で遠巻きに眺める者。挙げれば切りがない。内心、辟易としながら平原君の居室へと辿り着く。主の居室は堂間の最奥にあった。
「失礼します」
扉を開くと、文机の前で姿勢を正し、書見する平原君の姿があった。
彼は稚い顔を向け、楽毅達の顔を見遣ると、花が咲いたような満腔の笑みを浮かべた。一揖し、膝行で平原君の前で平伏する。
「無事に帰ってきたようだな」
破顔一笑した、平原君は頬を上気させる。楽毅達の主、平原君は多数の食客を抱え、達観した物言いを好むが、実の年齢は十二歳と驚くほどに若い。
「中山の様子はどうであった?」
平原君は広げた竹簡を文机に置くと、楽毅に向き直った。
「それが」
言い淀む。察したのか、平原君が低く唸り、顎先を擦る。勿論、平原君はまだ髭が生えるような歳ではない。
「やはりか」
平原君の声音が落ちる。
「俺達の知る、中山はもう存在していませんでした」
魏竜が洟を啜りながら告げる。
「兄を代に封じたのは、父の失態だ。兄に為政者との才はない。父も何処かで分かっていたはずだ。だが、父は愚かにも兄の瑕疵から眼を背けた。廃嫡へと追いやった罪悪感からなのかー。天下を治めるには、亡国の民の慰撫は欠かせぬ。それを、疎かにする父に、天下の君主としての才はないわ」
平原君はふくよかな両頬を怒りで朱に染め、主父を言で一刀両断にした。
「すまない。楽毅。司馬炎。魏竜。詫びて済む問題ではないことは理解している」
大人びた少年の眼許に、慚愧の皺が刻まれる。
「おれに力があれば、亡国の民を救ってやることができた」
平原君の声は潤いを欠いていた。
(ああ。この人は心の底から、中山の民を思ってくれているのだ)
楽毅の胸に熱いものが込み上げてくる。
「平原君の罪ではありません。平原君は我等亡国の臣に、最大限の敬意を払ってくださっています。中山と共に朽ちてゆくことを許されなかった、罪深き私達にー」
熱いものは鼻腔を抜け、眸から涙と零れ、頬を流れ冷めていく。
趙将の廉頗に敗れ、楽毅は趙へ降ることを余儀なくされた。
当時、王位にあった主父に気に入られ、虜囚のような酷い扱いは受けることはなかった。主父は尚武の士を好む。
降って間もなく、主父は諸公子の一人である、趙勝の警護を楽毅に命じた。平原君は当然のことながら、今よりも幼かった。やろうと思えば、幼い平原君を人質に逃げ帰ることもできたであろう。だが、幼い平原君は楽毅達に、亡国の臣としてではなく、一人の勇士として敬意を示した。たとえ公子とて、子供を盾に故郷に逃げ帰るような、姑息な真似はしたくなかった。
(俺は廉頗に敗れ、翼を捥がれたのだ)
と思い定めた。翼があったとして、泰平の世へ導く主も存在しない。
公子董の死と共に、志は泡沫に帰した。平原君への忠誠はある。彼もまた若くして、良き為政者としての器を具えている。
しかし、平原君も趙氏なのだ。胸中に蟠りがないかといえば嘘になる。
心からの忠誠を誓えば、それは公子董への裏切りになるのではないか。楽毅は塗炭の苦しみの中でもがいていた。
見上げる空は、あの時のように蒼くはない。邯鄲の空は昏い。もう二度と蒼き空を見上げることは叶わないのだ。 昏き世界に永劫と囚われる。それこそが生き残ってしまった、己への罰なのだ。
涙を拭い、楽毅は気持ちを切り替えるようと努めた。
田単のこともある。彼の寸毫の穢れもない、眼差しを思い出すと、沈んだ気持ちが浮かび上がってくる。彼は己が失くしたものを持っている。だからこそ、彼に惹かれるのかもしれない。
「平原君」
楽毅が切り出そうとした矢先、平原君が従者を呼び寄せ、楽毅の前に五つばかりに嚢中を置いた。どれもはち切れんばかりに膨れ上がっている。
平原君の間者は、国外にもー。そして、邯鄲にも数多潜んでいる。彼等は平原君の耳目となり、日常で起こる些細な変化も主に報せている。
「田氏の若者が気に入ったのだろう。くれてやるといい」
平原君が白い歯を見せる。彼には潤沢な蓄財がある。
公子といえど、数千を超える食客を抱えるだけの費用を、朝廷から支給される銭だけでは賄えない。食客は霞を食う訳ではないのだ。
巷間の噂では、平原君は邯鄲に出入りする、呂不韋という商人と共に独自の塩の交易路を拓いていると訊く。製塩業が盛んな、斉で比較的安く買い付け、塩の需要が高まる西域などで、高く売りつける。平原君は幼いながら、商才にも恵まれていた。
「感謝痛み入ります」
「お前が、おれに頼みごとをすることなど一度たりとてなかったからな。お前の日頃の忠勤に見合う額でもない。安いものだ」ははと上機嫌に、平原君は哄笑する。
「さて、楽毅。お前に一つ相談がある」
平原君の双眸に、明晰な光が宿る。
「何でしょう」
「約従の時がいよいよ近いと見えるのだ」
「合従軍が」
発起人は斉の孟嘗君であった。
宰相として秦に招かれたが、あろうことか昭襄王は臣下の讒言を盲信し、孟嘗君の存在は自国の不利益となると、判断し獄に落としたのである。
後に命からがら、秦から脱した、孟嘗君は秦の非道を糾弾し、合従軍を起こす為、遊説家の如く、諸国を巡って君主を説き、合従軍を起こすに至った。
山東の強国の斉。斉の威王の孫である孟嘗君の影響力は強く、諸国は斉の与国として、挙兵を強いられたのである。出師するのは、斉、魏、韓の三国。と平原君は告げる。この三国だけでも三十万を超える兵力となるだろう。
「困ったことに我が国にも、斉は派兵せよと言ってきておる」
「趙は秦と同盟関係にありますよね」
主父は趙から、楼緩なる大臣を秦に派遣。また、武王崩御の折りに、主父自身が燕の人質となっていた、昭襄王を秦へ送り返すように、燕を説得している。
以東の平定を目下の宿願と掲げている、主父は西の秦とは唇歯輔車の関係を築きたかったのである。
「斉が秦を潰せば、当然のことながら、斉は更に雄飛することになる。口惜しいが斉に対抗できるだけの兵力を有しているのは、虎狼の国である秦だけだ」
「両国が相剋を続ける存在であるからこそ、趙はその間、力を蓄えることができる」
「左様」
平原君の眉間には、年齢に見合わない、深い皺が刻まれている。
「主父はなんと?」
「父は斉に呼応するつもりだ」
妥当な判断だろう。合従を拒めば、秦攻略戦の後に、斉は趙に軍を差し向けるだろう。
斉の威王に仕えた、兵法家孫臏が提唱した必攻不守(侵攻戦略)の理念は、彼の地で強く根を張っている。斉は攻戦を貴ぶ国なのである。
「父にしては、珍しく消極的であるがな。父の性質上、自ら軍を率いて督戦することを望む所であるが、此度は少し違う。自らは中山に燻る、叛乱分子の一掃の為、中山の地に留まるという」
平原君が渋面を浮かべる。中山の臣である、楽毅の心情を斟酌してのことだろう。
「あくまで後方支援という形にもっていきたいのだろうな。秦の滅亡は、父の望むことではないからな」
「では、秦に派遣する軍の総指揮官は何方が執るのです?」
「おれだよ」
苦笑と共に、平原君から溜息が漏れた。驚愕のあまり、楽毅達は顔を見合わせた。
「しかし、平原君には」
言葉を濁す。
「知っての通り、おれに戦の経験などない。兵法に関する、典籍などは一通り眼を通し、諳んじることはできるが、典籍で戦の知悉が可能ならば軍人は要らぬ」
「主父は平原君を試そうとなさっているのでは」
「だろうな。兄王には勇敢さが欠如しているし、代に封じられた兄は、傲慢なうえ、戦の才は皆無だ」
たとえ公子でもあって、平原君は戦場を知るには早過ぎる。ましてや、万を超える軍勢の指揮である、初陣にしては、負担が大きすぎる。
だが、主父なら兄弟の中でも、群を抜いて明晰な平原君を其処まで追い込むだろう。
主父の跡を継いで、王となった恵文王の軍事的補佐を、ゆくゆくは平原君に任せるつもりなのかもしれない。
「正直、不安の方が大きいよ。おれに軍の指揮など」
平原君が弱音を吐露する様を、楽毅は初めて目の当りにした。
「其処で頼みがある。楽毅よ。おれの参謀として、従軍してもらいたい」
「私が参謀ですか?」
驚きを隠せない。参謀ならば、もっと相応しい者がいる。数千を超える、食客の中には、兵法に通暁している、在野の兵法家も多い。ましてや、己にも大戦の経験はない。
「おれに軍略を授けてくれたのは、お前ではないか」
平原君は盤上の廟戦(図上演習)を好み、一介の近衛に過ぎない、楽毅を幾度も相手に指名している。兵法に則って、助言はしたが、軍略を授けたなどと、大仰な自己認識はない。
「楽毅ならば適任かと」
司馬炎が断言してみせる。隣で魏竜が頷いている。
「おい。お前等な」
「決まりだな」
平原君が屈託なく笑う。怖くはある。だが、肚の底で渦巻いている熱気を感じる。
館の玄関口である、門闕には武装した、衛士が四人。
「帰ったか。亡国の臣ども」
年長者の衛士が、剣呑な雰囲気を放ちながら、楽毅の前に立ちはだかる。
むっとする司馬炎と魏竜に対して、楽毅は涼しい顔で衛士と向かい合う。
紺の双眸は、じっと敵愾心を向ける、衛士を見据えている。
「ちっ」
衛士は舌を打ち、顔を背けた。
「ささっと入れ。平原君がお待ちかねだ」
楽毅は一礼して、門闕を潜る。
三人が潜り終えると、
「生き恥を晒す、不忠の臣どもめ。中山と共に朽ち果てれば良かったものを」
衛士の一人が唾棄する声が聞こえた。
「放っておけ」
司馬炎の瞳孔は今にも、斬りかかりそうなほど開いていた。
主父の子であり、趙の恵文王の弟である、趙勝ことー。平原君は、斉の孟嘗君に匹敵するほどの食客を抱えている。中庭には武芸に励む、豪傑然とした者達が数多おり、母屋の縁側では、陰陽家や易者、楽者達などの姿も見かける。
彼等は一様に、楽毅一行を白眼視する。囁き声で悪罵する者。冷ややかな眼で遠巻きに眺める者。挙げれば切りがない。内心、辟易としながら平原君の居室へと辿り着く。主の居室は堂間の最奥にあった。
「失礼します」
扉を開くと、文机の前で姿勢を正し、書見する平原君の姿があった。
彼は稚い顔を向け、楽毅達の顔を見遣ると、花が咲いたような満腔の笑みを浮かべた。一揖し、膝行で平原君の前で平伏する。
「無事に帰ってきたようだな」
破顔一笑した、平原君は頬を上気させる。楽毅達の主、平原君は多数の食客を抱え、達観した物言いを好むが、実の年齢は十二歳と驚くほどに若い。
「中山の様子はどうであった?」
平原君は広げた竹簡を文机に置くと、楽毅に向き直った。
「それが」
言い淀む。察したのか、平原君が低く唸り、顎先を擦る。勿論、平原君はまだ髭が生えるような歳ではない。
「やはりか」
平原君の声音が落ちる。
「俺達の知る、中山はもう存在していませんでした」
魏竜が洟を啜りながら告げる。
「兄を代に封じたのは、父の失態だ。兄に為政者との才はない。父も何処かで分かっていたはずだ。だが、父は愚かにも兄の瑕疵から眼を背けた。廃嫡へと追いやった罪悪感からなのかー。天下を治めるには、亡国の民の慰撫は欠かせぬ。それを、疎かにする父に、天下の君主としての才はないわ」
平原君はふくよかな両頬を怒りで朱に染め、主父を言で一刀両断にした。
「すまない。楽毅。司馬炎。魏竜。詫びて済む問題ではないことは理解している」
大人びた少年の眼許に、慚愧の皺が刻まれる。
「おれに力があれば、亡国の民を救ってやることができた」
平原君の声は潤いを欠いていた。
(ああ。この人は心の底から、中山の民を思ってくれているのだ)
楽毅の胸に熱いものが込み上げてくる。
「平原君の罪ではありません。平原君は我等亡国の臣に、最大限の敬意を払ってくださっています。中山と共に朽ちてゆくことを許されなかった、罪深き私達にー」
熱いものは鼻腔を抜け、眸から涙と零れ、頬を流れ冷めていく。
趙将の廉頗に敗れ、楽毅は趙へ降ることを余儀なくされた。
当時、王位にあった主父に気に入られ、虜囚のような酷い扱いは受けることはなかった。主父は尚武の士を好む。
降って間もなく、主父は諸公子の一人である、趙勝の警護を楽毅に命じた。平原君は当然のことながら、今よりも幼かった。やろうと思えば、幼い平原君を人質に逃げ帰ることもできたであろう。だが、幼い平原君は楽毅達に、亡国の臣としてではなく、一人の勇士として敬意を示した。たとえ公子とて、子供を盾に故郷に逃げ帰るような、姑息な真似はしたくなかった。
(俺は廉頗に敗れ、翼を捥がれたのだ)
と思い定めた。翼があったとして、泰平の世へ導く主も存在しない。
公子董の死と共に、志は泡沫に帰した。平原君への忠誠はある。彼もまた若くして、良き為政者としての器を具えている。
しかし、平原君も趙氏なのだ。胸中に蟠りがないかといえば嘘になる。
心からの忠誠を誓えば、それは公子董への裏切りになるのではないか。楽毅は塗炭の苦しみの中でもがいていた。
見上げる空は、あの時のように蒼くはない。邯鄲の空は昏い。もう二度と蒼き空を見上げることは叶わないのだ。 昏き世界に永劫と囚われる。それこそが生き残ってしまった、己への罰なのだ。
涙を拭い、楽毅は気持ちを切り替えるようと努めた。
田単のこともある。彼の寸毫の穢れもない、眼差しを思い出すと、沈んだ気持ちが浮かび上がってくる。彼は己が失くしたものを持っている。だからこそ、彼に惹かれるのかもしれない。
「平原君」
楽毅が切り出そうとした矢先、平原君が従者を呼び寄せ、楽毅の前に五つばかりに嚢中を置いた。どれもはち切れんばかりに膨れ上がっている。
平原君の間者は、国外にもー。そして、邯鄲にも数多潜んでいる。彼等は平原君の耳目となり、日常で起こる些細な変化も主に報せている。
「田氏の若者が気に入ったのだろう。くれてやるといい」
平原君が白い歯を見せる。彼には潤沢な蓄財がある。
公子といえど、数千を超える食客を抱えるだけの費用を、朝廷から支給される銭だけでは賄えない。食客は霞を食う訳ではないのだ。
巷間の噂では、平原君は邯鄲に出入りする、呂不韋という商人と共に独自の塩の交易路を拓いていると訊く。製塩業が盛んな、斉で比較的安く買い付け、塩の需要が高まる西域などで、高く売りつける。平原君は幼いながら、商才にも恵まれていた。
「感謝痛み入ります」
「お前が、おれに頼みごとをすることなど一度たりとてなかったからな。お前の日頃の忠勤に見合う額でもない。安いものだ」ははと上機嫌に、平原君は哄笑する。
「さて、楽毅。お前に一つ相談がある」
平原君の双眸に、明晰な光が宿る。
「何でしょう」
「約従の時がいよいよ近いと見えるのだ」
「合従軍が」
発起人は斉の孟嘗君であった。
宰相として秦に招かれたが、あろうことか昭襄王は臣下の讒言を盲信し、孟嘗君の存在は自国の不利益となると、判断し獄に落としたのである。
後に命からがら、秦から脱した、孟嘗君は秦の非道を糾弾し、合従軍を起こす為、遊説家の如く、諸国を巡って君主を説き、合従軍を起こすに至った。
山東の強国の斉。斉の威王の孫である孟嘗君の影響力は強く、諸国は斉の与国として、挙兵を強いられたのである。出師するのは、斉、魏、韓の三国。と平原君は告げる。この三国だけでも三十万を超える兵力となるだろう。
「困ったことに我が国にも、斉は派兵せよと言ってきておる」
「趙は秦と同盟関係にありますよね」
主父は趙から、楼緩なる大臣を秦に派遣。また、武王崩御の折りに、主父自身が燕の人質となっていた、昭襄王を秦へ送り返すように、燕を説得している。
以東の平定を目下の宿願と掲げている、主父は西の秦とは唇歯輔車の関係を築きたかったのである。
「斉が秦を潰せば、当然のことながら、斉は更に雄飛することになる。口惜しいが斉に対抗できるだけの兵力を有しているのは、虎狼の国である秦だけだ」
「両国が相剋を続ける存在であるからこそ、趙はその間、力を蓄えることができる」
「左様」
平原君の眉間には、年齢に見合わない、深い皺が刻まれている。
「主父はなんと?」
「父は斉に呼応するつもりだ」
妥当な判断だろう。合従を拒めば、秦攻略戦の後に、斉は趙に軍を差し向けるだろう。
斉の威王に仕えた、兵法家孫臏が提唱した必攻不守(侵攻戦略)の理念は、彼の地で強く根を張っている。斉は攻戦を貴ぶ国なのである。
「父にしては、珍しく消極的であるがな。父の性質上、自ら軍を率いて督戦することを望む所であるが、此度は少し違う。自らは中山に燻る、叛乱分子の一掃の為、中山の地に留まるという」
平原君が渋面を浮かべる。中山の臣である、楽毅の心情を斟酌してのことだろう。
「あくまで後方支援という形にもっていきたいのだろうな。秦の滅亡は、父の望むことではないからな」
「では、秦に派遣する軍の総指揮官は何方が執るのです?」
「おれだよ」
苦笑と共に、平原君から溜息が漏れた。驚愕のあまり、楽毅達は顔を見合わせた。
「しかし、平原君には」
言葉を濁す。
「知っての通り、おれに戦の経験などない。兵法に関する、典籍などは一通り眼を通し、諳んじることはできるが、典籍で戦の知悉が可能ならば軍人は要らぬ」
「主父は平原君を試そうとなさっているのでは」
「だろうな。兄王には勇敢さが欠如しているし、代に封じられた兄は、傲慢なうえ、戦の才は皆無だ」
たとえ公子でもあって、平原君は戦場を知るには早過ぎる。ましてや、万を超える軍勢の指揮である、初陣にしては、負担が大きすぎる。
だが、主父なら兄弟の中でも、群を抜いて明晰な平原君を其処まで追い込むだろう。
主父の跡を継いで、王となった恵文王の軍事的補佐を、ゆくゆくは平原君に任せるつもりなのかもしれない。
「正直、不安の方が大きいよ。おれに軍の指揮など」
平原君が弱音を吐露する様を、楽毅は初めて目の当りにした。
「其処で頼みがある。楽毅よ。おれの参謀として、従軍してもらいたい」
「私が参謀ですか?」
驚きを隠せない。参謀ならば、もっと相応しい者がいる。数千を超える、食客の中には、兵法に通暁している、在野の兵法家も多い。ましてや、己にも大戦の経験はない。
「おれに軍略を授けてくれたのは、お前ではないか」
平原君は盤上の廟戦(図上演習)を好み、一介の近衛に過ぎない、楽毅を幾度も相手に指名している。兵法に則って、助言はしたが、軍略を授けたなどと、大仰な自己認識はない。
「楽毅ならば適任かと」
司馬炎が断言してみせる。隣で魏竜が頷いている。
「おい。お前等な」
「決まりだな」
平原君が屈託なく笑う。怖くはある。だが、肚の底で渦巻いている熱気を感じる。
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