楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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解放

 一

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 廉頗れんぱは迷いを断ち切れないでいた。趙王が宿泊する、離宮から一里の岩陰の影で、身を屈め、震える拳を握りしめている。

(俺は主父しゅほと、趙の未来―。どちらを選び取ればいい)

「将軍。来ます」
 斥候から報告を受けた、副官の楽乗がくじょう耳語じごする。
 
 直後。遠くの方で鉄が触れ合う音がした。静かな行軍だ。明確な悪意を抱いた兵達が土を踏みしめる音。
 岩の直ぐ近くを、整然と行軍する徒の兵が通過する。
 
 気息を整え、瞼を閉じる。
 刹那の間。廉頗は懐古かいこした。
 
 餓鬼の頃、戦争孤児であった、廉頗を主父が拾い上げた。両親の顔を思い出そうとしても、記憶は朧を纏っていて、輪郭程度しか思い出せない。
 
 ただ、両親が戦火に焼かれていく姿だけは、鮮明に覚えている。匈奴きょうどが邑を焼いたのだ。以降、廉頗は主父に育てられ、鍛え上げられた。血は繋がっていない。だが、廉頗にとって、主父こそが父なのだ。
 
 今、安陽君の軍に攻撃を仕掛ければ、己は主父を裏切ることになる。

「将軍!」
 楽乗の声で、我に返る。

「殿下と李兌りたい様が動きます」
 普段、泰然自若に構える、楽乗が緊張で神経をとがらせているのが分かる。ぐっと唾を呑む。溶かした青銅のように、ゆっくりと流れ込んでいく。

(決断の為所しどころか)
 己が動かなければ、作戦に蹉跌さてつをきたす。

 趙王の大叔父にあたる公子成こうしせいと、朝廷の重臣李兌が率いる五百と廉頗の率いる五百が、離宮を包囲せんとする、安陽君の軍勢に奇襲を仕掛ける。三名とも平原君の意を受けた者達であった。彼は安陽君の不穏な動きを察知し、すぐに信用がおける、公子成と李兌に協力を仰いだ。
 
 両名は以前より、安陽君の横暴な振る舞いに、強い不満を抱いていた。安陽君が王位を簒奪し、之を得れば、国は乱れる。悪王の素質は充分すぎるほどにある。

(何故、平原君は俺を選んだ)
 廉頗が主父を父と仰ぎ、心からの忠誠を誓っているのは、周知の事実。

(試そうというのか?俺がどちらを選び取るのか)
 紅に染まった月を見上げる。

「ちくしょう」
 まだ主父を生かす道はある。趙王とは別の離宮に宿泊している、主父が一貫して傍観の態を通してくれればいい。
 さすれば、主父への責任追及は、曖昧模糊あいまいもことしたものになる。
 友と思い定めている、楽毅は亡き公子董こうしとうの為に、躊躇なく己の命を懸けた。

(なのに、俺はまだ迷っている)

「うっ」
 右脇腹に痛痒つうようが入る。
 思い出す。楽毅との一騎討ちで、彼に付けられた傷である。

「お前は俺に勝った男だろ。ささっと覚悟を決めろ」
 そう楽毅になじられている気がした。
 迷いで震えていた、心の芯が定まる。

「行くぞ」
 廉頗は矛を携え、決然と麾下に合図を送った。



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