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天子
三
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其処には、後光が差した、美髯を持つ瓜実顔の男が堂々と立っていた。
「天子様」
直感する。眼の前におわすは、天の分身である、周宗室の天子であると。
周最は瞠目し、驚いていた。
「何故、分かった?」
「良い、周最。この少年の感覚は聡い。見よ。利発そうな顔をしておる」
天子は朗らかに笑った。
「少年。名は何と申す?」
「田単と」
声は涸れていた。
「田氏か。斉の者だな」
「左様で御座います」
「見事な立ち回りであった。斉には兵法家である、孫家の塾があると訊く」
「はい。孫家塾で武術を学びました」
穏やかな吐息が漏れる。馥郁とした香りが鼻腔を撫ぜる。
「では、兵法を学んでおるのか?」
「一通りのことは師事を受けております」
「斉は攻勢を貴ぶ国よな。お前は、何の為に兵法を学んだ?やはり、軍人となり、戦をし、自国に殷富を齎す為か?」
「いいえ。私は軍人になるつもりはありません。兵法を学んだのは、祖国を守る為で御座います。ですが、私は我が師の父祖が説いたように、攻戦によって祖国を守ろうとは思ってはおりません」
「ほう。では、どのように国を守護しようと言うのだ」
「斧鉞を捨て、対話による講和です。諸侯が矛をおさめれば、果ては世の争乱をおさめることに繋がります」
「清い理想じゃ。しかし、お主のように、対話によっていがみ合う諸侯をおさめようとした、弁士は星の数ほどいた。しかし、結果は今の情勢を見れば明らかじゃ」天子の顔に、諦念の影が差す。
「かつて蘇秦という名の説客が、秦に対する為、六か国合従を成立させました」
「だが、蘇秦が調停者となって成立させた、六か国合従も数年で反故となった」
「蘇秦は最も重要な鍵の存在を見逃していました」
天子の眉宇が上がる。
「鍵とは」
「此処におわす天子様で御座います」
「予が鍵と申すのか」
失笑を浮かべる、天子を真剣な眼差しで見つめる。
「はい」
「おぬしは優しい子よの。麒麟を前にしたような、穏やかな心地にしてくれる。だが、田単。本来、宗室が仲介となり、七王を監視し、律するべきなのだろうが、知っての通り、天子の力は諸侯に及ばぬ。おぬしが申す鍵は、予ではない」天子から長い嘆息が漏れる。
「見よ。田単。この体たらくを。予は洛陽の民を見捨てて、己だけが西周を頼り、あろうことか身分を貶め、逃れようとしておる」
周最は端でさめざめと涙を流していた。彼は天子に仕える、臣下の一人なのだろう。
だからこそ、秦の侵攻から逃れるようにして、無念の内に、西周へ逃れる天子の苦衷を察している。
秦は幾度ともなく、宗室を脅かしてきた。
武王の代では、宿将甘茂に命じて、韓の三川を奪わせ、宗室を睥睨した。近年でも、秦は洛陽に近い、魏と韓の所領を悉く奪って、匕首を宗室へと向けている。
また噂では、破竹の勢いで領土を広げる、秦の進撃を防ぐ為に、韓・魏・東周が合従の動きを見せているという。
ともならば、いよいよ洛陽を中心とした、中原も安泰ではない。
「致し方ないのだと思います。天子様が薨去されれば、世は更に乱れる。天子様は、真の王者にならんと企む、諸侯達の軛なのです」
天子の白皙の頬に、赤みが差す。
「落魄の身である、予でも世の役に立っているのか」
天子は双の眼から、涙を流した。田単の頬にも、涙が落ちる。
どれほど惨めな気持ちなのだろうか。天子と担がれるも、既に力はなく、想いは強けれど、戦によって富を得ようとする、諸侯の調停者となることも叶わない。戦乱によって、力なく民は疲れ果て、痩せ細って死んでいく。
旨味があるのは、一部の上流階級者のみ。
眼の前の天子は、七王の誰よりも、王者として相応しい器を具えている。だからこそ、彼の眼には涙が光っているのだ。
田単の心が燃えた。鋼の決意が宿る。
「天子様。無礼を承知で、その御心のうちを御聞かせ願いたいのです」
田単は額を地に擦りつける勢いで、跪拝した。
「これ。田単とやら。たとえ命の恩人であろうとも、一介の平民が、陛下の御軫念を窺い奉るなど、不敬にもほどがあろう」
咎めた周最の言い分は、最もである。平民である、己が天子の尊顔を拝し、ましてや直言することなどあってはならない。
「良い、周最。申せ、田単」
天子の朗々とした声が轟く。
「いずれ、この不肖田単が終焉なく諸侯達の無益な諍いに終止符を打ってみせます」
田単は言葉を切った。そして、砂に塗れる面を上げた。天子は真っ直ぐに、田氏の若者を見据えている。
「いつか天地静謐の兆しが訪れた時、天子様には再び万民の先導者として、世を治め、匡す御覚悟がおありのでしょうか」
暫しの沈黙があった。ただ風が流れていく。総身から滝のような汗を噴き出していた。この問いは万死に値する。
だが、己の命を引き換えにしても、天子の御心に触れ、覚悟を問う必要があった。
「田単」
天子の声は威容を纏っていた。
「天子としての力が、今の予にどれほど残されているのか分からない。だが、再び宗室の威光で地上を照らすことが叶うのなら、予は全身全霊で万民に尽くす所存である」
袖で目許を拭い、毅然と構えた、天子は羽化登仙したような、黄金の気配を纏う。
田単の胸は感激で震えていた。さめざめと涙が流れる。やはり、荒廃した世界には、まだ光輝は残されていた。
「やはり、天子様は七国講和に至る鍵なのです。いつか私が必ずや世を創り変えてみせます」
「約束ぞ。予は恥や汚穢に塗れても、生き延びてみせる。だから、お前は麒麟の心を有して、真っ直ぐな男であり続けてくれ」
「御意」
「この邂逅は天命であった。また必ず会おう。田単」
天子は馬車の前に置かれた、践石を踏みしめ、微笑みかけた。天子の相貌に、光輪が重なる。
天子を乗せた、馬車は煙を巻き上げて、駆け去って行った。
田単は東へ足を向ける。
彷徨としていた道が、今、一筋の光の道となって、眼の前に現れた。
この暗黒の時代に終焉も齎す、光輝を守る柱となるのだ。
この時、田単が出逢った天子は赧王といい、約八百年余り続いた周王朝、最期の天子となる。
「天子様」
直感する。眼の前におわすは、天の分身である、周宗室の天子であると。
周最は瞠目し、驚いていた。
「何故、分かった?」
「良い、周最。この少年の感覚は聡い。見よ。利発そうな顔をしておる」
天子は朗らかに笑った。
「少年。名は何と申す?」
「田単と」
声は涸れていた。
「田氏か。斉の者だな」
「左様で御座います」
「見事な立ち回りであった。斉には兵法家である、孫家の塾があると訊く」
「はい。孫家塾で武術を学びました」
穏やかな吐息が漏れる。馥郁とした香りが鼻腔を撫ぜる。
「では、兵法を学んでおるのか?」
「一通りのことは師事を受けております」
「斉は攻勢を貴ぶ国よな。お前は、何の為に兵法を学んだ?やはり、軍人となり、戦をし、自国に殷富を齎す為か?」
「いいえ。私は軍人になるつもりはありません。兵法を学んだのは、祖国を守る為で御座います。ですが、私は我が師の父祖が説いたように、攻戦によって祖国を守ろうとは思ってはおりません」
「ほう。では、どのように国を守護しようと言うのだ」
「斧鉞を捨て、対話による講和です。諸侯が矛をおさめれば、果ては世の争乱をおさめることに繋がります」
「清い理想じゃ。しかし、お主のように、対話によっていがみ合う諸侯をおさめようとした、弁士は星の数ほどいた。しかし、結果は今の情勢を見れば明らかじゃ」天子の顔に、諦念の影が差す。
「かつて蘇秦という名の説客が、秦に対する為、六か国合従を成立させました」
「だが、蘇秦が調停者となって成立させた、六か国合従も数年で反故となった」
「蘇秦は最も重要な鍵の存在を見逃していました」
天子の眉宇が上がる。
「鍵とは」
「此処におわす天子様で御座います」
「予が鍵と申すのか」
失笑を浮かべる、天子を真剣な眼差しで見つめる。
「はい」
「おぬしは優しい子よの。麒麟を前にしたような、穏やかな心地にしてくれる。だが、田単。本来、宗室が仲介となり、七王を監視し、律するべきなのだろうが、知っての通り、天子の力は諸侯に及ばぬ。おぬしが申す鍵は、予ではない」天子から長い嘆息が漏れる。
「見よ。田単。この体たらくを。予は洛陽の民を見捨てて、己だけが西周を頼り、あろうことか身分を貶め、逃れようとしておる」
周最は端でさめざめと涙を流していた。彼は天子に仕える、臣下の一人なのだろう。
だからこそ、秦の侵攻から逃れるようにして、無念の内に、西周へ逃れる天子の苦衷を察している。
秦は幾度ともなく、宗室を脅かしてきた。
武王の代では、宿将甘茂に命じて、韓の三川を奪わせ、宗室を睥睨した。近年でも、秦は洛陽に近い、魏と韓の所領を悉く奪って、匕首を宗室へと向けている。
また噂では、破竹の勢いで領土を広げる、秦の進撃を防ぐ為に、韓・魏・東周が合従の動きを見せているという。
ともならば、いよいよ洛陽を中心とした、中原も安泰ではない。
「致し方ないのだと思います。天子様が薨去されれば、世は更に乱れる。天子様は、真の王者にならんと企む、諸侯達の軛なのです」
天子の白皙の頬に、赤みが差す。
「落魄の身である、予でも世の役に立っているのか」
天子は双の眼から、涙を流した。田単の頬にも、涙が落ちる。
どれほど惨めな気持ちなのだろうか。天子と担がれるも、既に力はなく、想いは強けれど、戦によって富を得ようとする、諸侯の調停者となることも叶わない。戦乱によって、力なく民は疲れ果て、痩せ細って死んでいく。
旨味があるのは、一部の上流階級者のみ。
眼の前の天子は、七王の誰よりも、王者として相応しい器を具えている。だからこそ、彼の眼には涙が光っているのだ。
田単の心が燃えた。鋼の決意が宿る。
「天子様。無礼を承知で、その御心のうちを御聞かせ願いたいのです」
田単は額を地に擦りつける勢いで、跪拝した。
「これ。田単とやら。たとえ命の恩人であろうとも、一介の平民が、陛下の御軫念を窺い奉るなど、不敬にもほどがあろう」
咎めた周最の言い分は、最もである。平民である、己が天子の尊顔を拝し、ましてや直言することなどあってはならない。
「良い、周最。申せ、田単」
天子の朗々とした声が轟く。
「いずれ、この不肖田単が終焉なく諸侯達の無益な諍いに終止符を打ってみせます」
田単は言葉を切った。そして、砂に塗れる面を上げた。天子は真っ直ぐに、田氏の若者を見据えている。
「いつか天地静謐の兆しが訪れた時、天子様には再び万民の先導者として、世を治め、匡す御覚悟がおありのでしょうか」
暫しの沈黙があった。ただ風が流れていく。総身から滝のような汗を噴き出していた。この問いは万死に値する。
だが、己の命を引き換えにしても、天子の御心に触れ、覚悟を問う必要があった。
「田単」
天子の声は威容を纏っていた。
「天子としての力が、今の予にどれほど残されているのか分からない。だが、再び宗室の威光で地上を照らすことが叶うのなら、予は全身全霊で万民に尽くす所存である」
袖で目許を拭い、毅然と構えた、天子は羽化登仙したような、黄金の気配を纏う。
田単の胸は感激で震えていた。さめざめと涙が流れる。やはり、荒廃した世界には、まだ光輝は残されていた。
「やはり、天子様は七国講和に至る鍵なのです。いつか私が必ずや世を創り変えてみせます」
「約束ぞ。予は恥や汚穢に塗れても、生き延びてみせる。だから、お前は麒麟の心を有して、真っ直ぐな男であり続けてくれ」
「御意」
「この邂逅は天命であった。また必ず会おう。田単」
天子は馬車の前に置かれた、践石を踏みしめ、微笑みかけた。天子の相貌に、光輪が重なる。
天子を乗せた、馬車は煙を巻き上げて、駆け去って行った。
田単は東へ足を向ける。
彷徨としていた道が、今、一筋の光の道となって、眼の前に現れた。
この暗黒の時代に終焉も齎す、光輝を守る柱となるのだ。
この時、田単が出逢った天子は赧王といい、約八百年余り続いた周王朝、最期の天子となる。
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