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空を求めて
十
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心が冷えている。甕に入った水を柄杓で救い、口に入れる。吐き出すと、水が赤く染まっていた。
「あの。旦那様」
心許なげな面持ちで、背後に春櫂が控えていた。
「訊いていたのか」
口調に棘が出る。今は独りになりたかった。
「私も張順さんも、旦那様と過ごさせて頂いた日々は短いです。それでも、私達にとって、その数日は、人生で一番に満たされた時でした。旦那様だけなのです。私をー」
そこで、春櫂の言葉が途切れた。涙が頬を伝う。
「一人の人間として、扱ってくれたのは」
「春櫂」
嗚咽が漏れる。小さな肩が、激しく震える。
「司馬炎殿の仰る通りなのだと思います。旦那様は王のお飾りの近衛として、終わる御方ではない。奴隷の私には、難しいことは分かりません。それでも、感じるのです。旦那様は、大成すべき御方なのだと。
だからー。もしー。私達の存在が足枷になっているのなら、迷わず行って下さい。短い間のことでした。でも、私達にとってはかけがえのないひと時でした。これからどんな辛い目に合おうとも、旦那様と過ごした宝物のような日々を思い出すだけで、耐えて行けると思います。きっと、張順さんも同じ思いだと思います」
春櫂は唇を引き締め、濡れた頬を弛緩させた。
己が去れば、春櫂と張順は新たな主に買われる。きっと其処では、畜生以下の扱いを受ける、凄惨な日々が待っている。
春櫂は承知の上で、小さき胸に秘めた覚悟を以って、告げている。どれほどの勇気がいるだろうか。きっと俺が見捨てれば、彼等は襤褸のようになるまで働かされ、誰からも惜しまれず、供養もされず死んでいく。
そして、意を決して、共に魏から出たとして、己には活計がない。仕官先となる、あてもない。五人が野に屍を晒す、可能性も零ではない。だが、俺が此処に残ればー。四人に最低限の生活を保障してやれる。
俺が蒼き具足を脱ぎ、誇りと夢を捨て去ればー。
「春櫂」
彼女の小さな躰を抱きしめていた。
「だ、旦那様」
驚きのあまり、春櫂は身を捩らせた。強く抱きしめる。
「もう俺は大切な者を失いたくない。確かに過ごした時は、短いかもしれない。だけど、お前も張順も、俺の家族だ。だから、守り抜く」
「でも」
胸の中で、春櫂が呟く。恐る恐る、楽毅の背に腕を回す。
「大丈夫。俺が守ってやる。だから、正直になればいい」
艶やかな髪から、花のような香気がする。
「何処にも行かないで。私は旦那様のお傍に、ずっと置いて下さい」
春櫂の堰き止めていた想いが溢れる。童のように泣きじゃくる、彼女を楽毅はずっと抱きしめていた。
「あの。旦那様」
心許なげな面持ちで、背後に春櫂が控えていた。
「訊いていたのか」
口調に棘が出る。今は独りになりたかった。
「私も張順さんも、旦那様と過ごさせて頂いた日々は短いです。それでも、私達にとって、その数日は、人生で一番に満たされた時でした。旦那様だけなのです。私をー」
そこで、春櫂の言葉が途切れた。涙が頬を伝う。
「一人の人間として、扱ってくれたのは」
「春櫂」
嗚咽が漏れる。小さな肩が、激しく震える。
「司馬炎殿の仰る通りなのだと思います。旦那様は王のお飾りの近衛として、終わる御方ではない。奴隷の私には、難しいことは分かりません。それでも、感じるのです。旦那様は、大成すべき御方なのだと。
だからー。もしー。私達の存在が足枷になっているのなら、迷わず行って下さい。短い間のことでした。でも、私達にとってはかけがえのないひと時でした。これからどんな辛い目に合おうとも、旦那様と過ごした宝物のような日々を思い出すだけで、耐えて行けると思います。きっと、張順さんも同じ思いだと思います」
春櫂は唇を引き締め、濡れた頬を弛緩させた。
己が去れば、春櫂と張順は新たな主に買われる。きっと其処では、畜生以下の扱いを受ける、凄惨な日々が待っている。
春櫂は承知の上で、小さき胸に秘めた覚悟を以って、告げている。どれほどの勇気がいるだろうか。きっと俺が見捨てれば、彼等は襤褸のようになるまで働かされ、誰からも惜しまれず、供養もされず死んでいく。
そして、意を決して、共に魏から出たとして、己には活計がない。仕官先となる、あてもない。五人が野に屍を晒す、可能性も零ではない。だが、俺が此処に残ればー。四人に最低限の生活を保障してやれる。
俺が蒼き具足を脱ぎ、誇りと夢を捨て去ればー。
「春櫂」
彼女の小さな躰を抱きしめていた。
「だ、旦那様」
驚きのあまり、春櫂は身を捩らせた。強く抱きしめる。
「もう俺は大切な者を失いたくない。確かに過ごした時は、短いかもしれない。だけど、お前も張順も、俺の家族だ。だから、守り抜く」
「でも」
胸の中で、春櫂が呟く。恐る恐る、楽毅の背に腕を回す。
「大丈夫。俺が守ってやる。だから、正直になればいい」
艶やかな髪から、花のような香気がする。
「何処にも行かないで。私は旦那様のお傍に、ずっと置いて下さい」
春櫂の堰き止めていた想いが溢れる。童のように泣きじゃくる、彼女を楽毅はずっと抱きしめていた。
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