楽毅 大鵬伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
52 / 140
空を求めて

 十一

しおりを挟む
 孤影を引き摺って、粛々と歩く人々を、窓から眺めていると、馭者が馬車を停めた。従者が馬車に乗り込み、隣に腰を下ろす。

「分かったのか」

「はい」抑揚のない声で告げると、彼は楽毅の生い立ちをつまびらかなに語った。

「なるほど」
 蘇代は細く伸ばした、髭の先を指でなぞる。

「中山の宰相の嗣子ししとして生まれ、若くして公子董こうしとう公子董の参謀役を務め、武霊王ぶれいおうの興味を誘い、趙に降り、従者としてではあったが、平原君が全幅の信頼を置いていたと。ましてや、楽毅が沙丘さきゅうの乱に深く関わっていたとはな」
 蘇代は嫣然えんぜんと笑む。

「面白い経歴ではないか。しかし、不思議だな。これほど、国の主だった男達に気に入られながら、未だ布衣の身であるとは」

「星の巡り合わせかもしれません。類まれなる将器を持ってしても、活躍の場が与えられなければ、立身することは叶いませんから」淡々と従者が返す。

「で、魏王は楽毅をどのように?」

「やはり、先日の言の通り、近習として召し抱えるつもりのようですね」

「ふむ。趙の息がかかっていると見られているのか」
「はい。楽毅は楽羊の末裔。血筋としては申し分ありません。故に楽毅の台頭を快く思わない佞臣ねいしんが、魏王に讒言しているようです」

「内輪で足の引っ張り合いか。何処の国も遜色はないが、梁は傾向が顕著だな」

「魏王は秦の侵略から眼を背け、日々、享楽に耽っております。魏王を諫める者は悉く放逐され、残っている者の大分が、魏王に諂諛てんゆする悪吏しか宮廷には残っていないのです」
 蘇代も目の当りにしている。最早、魏にまともな家臣は残っていない。唯一、一縷の望みとなるのは、弁士であり、将軍である、公孫衍こうそんえんが残っている。
 
 だが、公孫衍も今は、伊闕いけつ周辺に軍を集結させている、秦との対応に追われて、出払っている。
 魏は病んでいた。其れも出しきれないほどの膿が溜まっている。

「どうされますか?」
 従者は無表情で訊いた。

「楽毅を此処で終わらしたくはない」

 燕は復興後、昭王の御代となり、重臣郭隗かくかいの助言もあり、各地から賢者、勇士を貴賤問わず、招聘しょうへいしている。燕王はきっと、楽毅を気に入るに違いない。それに、蘇代には、楽毅が燕を更に雄飛させるという予感めいたものを覚えている。

「では、手を打ちますか」
 従者の眼に、不敵な光が宿る。

「ああ」
 次の言葉を繋げようとした、矢先。見覚えのある、青年二人が馬車を横切るのが見えた。二人は場所を憚らず、大声で口論をしている。
 場所は仲通り。人の往来が疎らといっても、完全に途絶えている訳ではなく、しだいに口論を続ける、二人の周囲には黒山こくざんがうまれつつある。

「あれは」

「司馬炎と魏竜。楽毅の友人ですね」
 得心した。道理で見覚えがある訳だ。同時に、其処まで調べ上げている、従者の手際の良さに感嘆した。

「少し寄れ」
 馬車を口論する彼等の近くに付けさせる。二人は語気を荒げて、今にも掴みかかりそうな勢いだ。

 傾聴する。

(なるほど。楽毅は己を殺して、魏に留まるつもりらしい)
 手間なく情報を齎してくれる、若者に蘇代は感謝した。

「まず。あの二人と話をしてみよう。先に本人と話を通すより、外堀から埋めた方が、話は円滑に進む」
 従者が諾と答えると、直ぐさま、激昂する二人へと近づいていた。
 訝しむ眼が、馬車の中にいる、蘇代へと向いた。

しおりを挟む

処理中です...