楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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宋攻略戦

 一

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 楽毅がくきは燕王の元に伺候しこうした。居室に通されると、見知らぬ男が燕王と話し込んでいた。蒲柳ほりゅうの態の男は眼を眇め、楽毅の相貌をつらつらと眺めた。鷲鼻で頬はこけ、不気味な気配を孕んだ男であった。

「おう。来たか」
 燕王は相変わらず軽快な口調で言った。

「紹介しよう。こいつは、蘇代そだいの弟の」

蘇代それいと申します。以後、お見知りおきを」
 楽毅は蘇厲にならって、一揖いちゆうする。弟も同様に、遊説家ゆうせつかとして、諸国を巡っているとは聞いていた。弟の方が、兄の蘇代より遥かに老けて見える。 鋭い眼が、ずっと楽毅を見据えている。

「何でしょう」

「いやはや。兄が惚れ込むのも、分かる気がします。なかなかどうして。良き顔相しておられる」
 笑うと眼がなくなる。笑顔には愛嬌があった。

「蘇厲も同様に、我が国に仕える弁士だ」
 座れと促され、蘇厲の隣に座った。

「斉と秦が帝号を称したことは知っているな」
 燕王の顔は渋い。

「はい」
「秦は斉と組み、三晋を滅ぼす腹積りだった。だが、直ぐに斉王は帝号を捨てた」

「之には兄の策謀が絡んでおります。斉王は強欲な男ですから、燕の間者として疑われない為にも、斉王が望む帝号を一度薦める必要がありました。
ですが、兄の本当の狙いは、斉に宋を伐たたせること。とどのつまり、宋を攻めさせ、斉に財政的な疲弊を齎す為です。まぁ勿論、秦と斉が同盟を締結させるのを避ける為もあります。
二強が手を組めば、その軍事力は秦を襲った合従軍の比になりません。兄は今、魏と楚を回り、斉との同盟を締結させようとしています」

「何故、あえて魏と楚を誘う必要があるのです。斉を疲弊させる魂胆があるのならば、斉だけで伐たたせるのが妥当ではないのですか?」
 楽毅は口を挟んだ。蘇代の策謀は、あまりにも迂遠な気がする。

「確かに。ですが、兄上には秘策あるのです」

「秘策?」
「はい。兄上は斉王の気質を知悉しておられる。知れたことですが、現今の斉王は傲慢で猜疑心の強い男です。宋を滅ぼした後に、兄上が魏と楚に領土を割かないように献策すれば、斉王のことですから、献策を諾と受け入れるでしょう」

「つまり、魏と楚に不信感を植え付ける為に?」

「その通りです」

「魏と楚を来たる時に向けて、味方に引き入れる基盤を造り上げておくということですか」
 蘇厲は破顔した。

「理解が早くて助かります」

「見ろ」
 燕王が文机に広げている、竹簡を指差した。
「これは」
 内容は斉王が、燕に宋への出師を強いるものであった。
 文体からも読み取れる。斉王は明らかに、燕王を己の臣下のように卑下している。

「気に入らないな。奴は俺を家畜のように見下してやがる」
 燕王は舌を鳴らす。

「で、出師はなさるのですか?」

「しないと言いたいが、あえて兵を出す」

「あえてとは」
 
 蘇厲が口を開く。
「今は徹頭徹尾、斉への服従を装う時期なのです。まず、宋を滅ぼし、斉と魏、楚の不和を齎す。次に大王様は秦から送られてきた、同盟の誓約書を焼き捨て、周宗室に斉を盟主と仰ぐ旨を声高々と宣言して頂きます。
燕がさきがけとなり、斉への服従を誓えば、諸国は追従することは間違いないかと。
秦は天下の嫌われ者ですから。そこで焦った秦は動きます。此方に有利な条件で、何としても斉から引き離そうとするでしょう」

「なるほど。狙いは分かりました。その機を狙い我々が動く。燕が代表国となり、秦を連合に引き入れ、後に三晋、楚を連合に引き入れる。魏と楚は宋攻略時の怨みがあるから、二つ返事で与国として名乗りを挙げる」
 末恐ろしいと思った。蘇兄弟、燕王の玄謀げんぼうに微塵の隙もない。

「斉を伐てる。その為ならば、俺は辛酸を舐めよう」
 燕王の眼に、不退転の覚悟が宿っている。

「斉の領土を手に入れば、西への足掛かりを得ることができます」
 楽毅の構想は、更に先にある。

「ああ。その先に待っているものは。天下だ」
 燕王が莞爾かんじとして笑う。そう。あくまで斉を併呑することは、二人にとって通過点なのだ。

「楽毅、宋への出兵を頼めるか。肉薄しなくてもいい。北地で鍛え上げた、燕軍を内地の戦に馴らす程度でいい」

「御意に」
 楽毅は昂奮していた。劇辛げきしんと共に、幾度も北方に出兵し、蛮夷を討ち払った。
 とっても、騎馬一万程度を率いた遠征なので、大規模な戦の経験はない。内地での戦は、十万を超える規模の兵が集められる。蛮夷は楽毅が掲げる、大鵬の旗を見るやいなや、大童おおわらわで逃げ出す。

 夷狄は楽毅をこう呼ぶ。白翼はくよく将軍―と。
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