72 / 140
宋攻略戦
一
しおりを挟む
楽毅は燕王の元に伺候した。居室に通されると、見知らぬ男が燕王と話し込んでいた。蒲柳の態の男は眼を眇め、楽毅の相貌をつらつらと眺めた。鷲鼻で頬はこけ、不気味な気配を孕んだ男であった。
「おう。来たか」
燕王は相変わらず軽快な口調で言った。
「紹介しよう。こいつは、蘇代の弟の」
「蘇代と申します。以後、お見知りおきを」
楽毅は蘇厲にならって、一揖する。弟も同様に、遊説家として、諸国を巡っているとは聞いていた。弟の方が、兄の蘇代より遥かに老けて見える。 鋭い眼が、ずっと楽毅を見据えている。
「何でしょう」
「いやはや。兄が惚れ込むのも、分かる気がします。なかなかどうして。良き顔相しておられる」
笑うと眼がなくなる。笑顔には愛嬌があった。
「蘇厲も同様に、我が国に仕える弁士だ」
座れと促され、蘇厲の隣に座った。
「斉と秦が帝号を称したことは知っているな」
燕王の顔は渋い。
「はい」
「秦は斉と組み、三晋を滅ぼす腹積りだった。だが、直ぐに斉王は帝号を捨てた」
「之には兄の策謀が絡んでおります。斉王は強欲な男ですから、燕の間者として疑われない為にも、斉王が望む帝号を一度薦める必要がありました。
ですが、兄の本当の狙いは、斉に宋を伐たたせること。とどのつまり、宋を攻めさせ、斉に財政的な疲弊を齎す為です。まぁ勿論、秦と斉が同盟を締結させるのを避ける為もあります。
二強が手を組めば、その軍事力は秦を襲った合従軍の比になりません。兄は今、魏と楚を回り、斉との同盟を締結させようとしています」
「何故、あえて魏と楚を誘う必要があるのです。斉を疲弊させる魂胆があるのならば、斉だけで伐たたせるのが妥当ではないのですか?」
楽毅は口を挟んだ。蘇代の策謀は、あまりにも迂遠な気がする。
「確かに。ですが、兄上には秘策あるのです」
「秘策?」
「はい。兄上は斉王の気質を知悉しておられる。知れたことですが、現今の斉王は傲慢で猜疑心の強い男です。宋を滅ぼした後に、兄上が魏と楚に領土を割かないように献策すれば、斉王のことですから、献策を諾と受け入れるでしょう」
「つまり、魏と楚に不信感を植え付ける為に?」
「その通りです」
「魏と楚を来たる時に向けて、味方に引き入れる基盤を造り上げておくということですか」
蘇厲は破顔した。
「理解が早くて助かります」
「見ろ」
燕王が文机に広げている、竹簡を指差した。
「これは」
内容は斉王が、燕に宋への出師を強いるものであった。
文体からも読み取れる。斉王は明らかに、燕王を己の臣下のように卑下している。
「気に入らないな。奴は俺を家畜のように見下してやがる」
燕王は舌を鳴らす。
「で、出師はなさるのですか?」
「しないと言いたいが、あえて兵を出す」
「あえてとは」
蘇厲が口を開く。
「今は徹頭徹尾、斉への服従を装う時期なのです。まず、宋を滅ぼし、斉と魏、楚の不和を齎す。次に大王様は秦から送られてきた、同盟の誓約書を焼き捨て、周宗室に斉を盟主と仰ぐ旨を声高々と宣言して頂きます。
燕が魁となり、斉への服従を誓えば、諸国は追従することは間違いないかと。
秦は天下の嫌われ者ですから。そこで焦った秦は動きます。此方に有利な条件で、何としても斉から引き離そうとするでしょう」
「なるほど。狙いは分かりました。その機を狙い我々が動く。燕が代表国となり、秦を連合に引き入れ、後に三晋、楚を連合に引き入れる。魏と楚は宋攻略時の怨みがあるから、二つ返事で与国として名乗りを挙げる」
末恐ろしいと思った。蘇兄弟、燕王の玄謀に微塵の隙もない。
「斉を伐てる。その為ならば、俺は辛酸を舐めよう」
燕王の眼に、不退転の覚悟が宿っている。
「斉の領土を手に入れば、西への足掛かりを得ることができます」
楽毅の構想は、更に先にある。
「ああ。その先に待っているものは。天下だ」
燕王が莞爾として笑う。そう。あくまで斉を併呑することは、二人にとって通過点なのだ。
「楽毅、宋への出兵を頼めるか。肉薄しなくてもいい。北地で鍛え上げた、燕軍を内地の戦に馴らす程度でいい」
「御意に」
楽毅は昂奮していた。劇辛と共に、幾度も北方に出兵し、蛮夷を討ち払った。
とっても、騎馬一万程度を率いた遠征なので、大規模な戦の経験はない。内地での戦は、十万を超える規模の兵が集められる。蛮夷は楽毅が掲げる、大鵬の旗を見るやいなや、大童で逃げ出す。
夷狄は楽毅をこう呼ぶ。白翼将軍―と。
「おう。来たか」
燕王は相変わらず軽快な口調で言った。
「紹介しよう。こいつは、蘇代の弟の」
「蘇代と申します。以後、お見知りおきを」
楽毅は蘇厲にならって、一揖する。弟も同様に、遊説家として、諸国を巡っているとは聞いていた。弟の方が、兄の蘇代より遥かに老けて見える。 鋭い眼が、ずっと楽毅を見据えている。
「何でしょう」
「いやはや。兄が惚れ込むのも、分かる気がします。なかなかどうして。良き顔相しておられる」
笑うと眼がなくなる。笑顔には愛嬌があった。
「蘇厲も同様に、我が国に仕える弁士だ」
座れと促され、蘇厲の隣に座った。
「斉と秦が帝号を称したことは知っているな」
燕王の顔は渋い。
「はい」
「秦は斉と組み、三晋を滅ぼす腹積りだった。だが、直ぐに斉王は帝号を捨てた」
「之には兄の策謀が絡んでおります。斉王は強欲な男ですから、燕の間者として疑われない為にも、斉王が望む帝号を一度薦める必要がありました。
ですが、兄の本当の狙いは、斉に宋を伐たたせること。とどのつまり、宋を攻めさせ、斉に財政的な疲弊を齎す為です。まぁ勿論、秦と斉が同盟を締結させるのを避ける為もあります。
二強が手を組めば、その軍事力は秦を襲った合従軍の比になりません。兄は今、魏と楚を回り、斉との同盟を締結させようとしています」
「何故、あえて魏と楚を誘う必要があるのです。斉を疲弊させる魂胆があるのならば、斉だけで伐たたせるのが妥当ではないのですか?」
楽毅は口を挟んだ。蘇代の策謀は、あまりにも迂遠な気がする。
「確かに。ですが、兄上には秘策あるのです」
「秘策?」
「はい。兄上は斉王の気質を知悉しておられる。知れたことですが、現今の斉王は傲慢で猜疑心の強い男です。宋を滅ぼした後に、兄上が魏と楚に領土を割かないように献策すれば、斉王のことですから、献策を諾と受け入れるでしょう」
「つまり、魏と楚に不信感を植え付ける為に?」
「その通りです」
「魏と楚を来たる時に向けて、味方に引き入れる基盤を造り上げておくということですか」
蘇厲は破顔した。
「理解が早くて助かります」
「見ろ」
燕王が文机に広げている、竹簡を指差した。
「これは」
内容は斉王が、燕に宋への出師を強いるものであった。
文体からも読み取れる。斉王は明らかに、燕王を己の臣下のように卑下している。
「気に入らないな。奴は俺を家畜のように見下してやがる」
燕王は舌を鳴らす。
「で、出師はなさるのですか?」
「しないと言いたいが、あえて兵を出す」
「あえてとは」
蘇厲が口を開く。
「今は徹頭徹尾、斉への服従を装う時期なのです。まず、宋を滅ぼし、斉と魏、楚の不和を齎す。次に大王様は秦から送られてきた、同盟の誓約書を焼き捨て、周宗室に斉を盟主と仰ぐ旨を声高々と宣言して頂きます。
燕が魁となり、斉への服従を誓えば、諸国は追従することは間違いないかと。
秦は天下の嫌われ者ですから。そこで焦った秦は動きます。此方に有利な条件で、何としても斉から引き離そうとするでしょう」
「なるほど。狙いは分かりました。その機を狙い我々が動く。燕が代表国となり、秦を連合に引き入れ、後に三晋、楚を連合に引き入れる。魏と楚は宋攻略時の怨みがあるから、二つ返事で与国として名乗りを挙げる」
末恐ろしいと思った。蘇兄弟、燕王の玄謀に微塵の隙もない。
「斉を伐てる。その為ならば、俺は辛酸を舐めよう」
燕王の眼に、不退転の覚悟が宿っている。
「斉の領土を手に入れば、西への足掛かりを得ることができます」
楽毅の構想は、更に先にある。
「ああ。その先に待っているものは。天下だ」
燕王が莞爾として笑う。そう。あくまで斉を併呑することは、二人にとって通過点なのだ。
「楽毅、宋への出兵を頼めるか。肉薄しなくてもいい。北地で鍛え上げた、燕軍を内地の戦に馴らす程度でいい」
「御意に」
楽毅は昂奮していた。劇辛と共に、幾度も北方に出兵し、蛮夷を討ち払った。
とっても、騎馬一万程度を率いた遠征なので、大規模な戦の経験はない。内地での戦は、十万を超える規模の兵が集められる。蛮夷は楽毅が掲げる、大鵬の旗を見るやいなや、大童で逃げ出す。
夷狄は楽毅をこう呼ぶ。白翼将軍―と。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
14
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる