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導
六
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王宮に到着すると、秋毫もおかず、王の居室に通された。
斉王は蘇代に、全幅の信頼を置いている。黄金の扉が開かれると、大きく手を広げた、斉王が出迎えた。
「蘇代。ただいま戻りました」
長揖する。
「其方の帰還を心待ちにしていたぞ」
酒を更に発酵させたような、腐った息が鼻腔を襲う。
「燕の様子はどうであった?」
蘇代に席に付くように促す。斉王の眼に、猜疑の光が宿る。
「相変わらずとでも申し上げておきましょうか。燕王は大王様の権威を懼れ、これまで同様に臣従を誓っております」向かい合わせで座った、斉王は満足げに笑った。
「やはり燕王は臆病者よのう」
「燕は捨て置いて構わないでしょう。通年通り、朝貢の支度も進めているようでしたので」
「ほう。殊勝な心掛けじゃ。まぁ、おかしな動きを見せた所で、あのような弱国、一ヶ月もあれば捻り潰せるわ」
蘇代は胸の内で嘲笑った。斉王は燕が昇竜の勢いで、力を付けていることを知らない。
斉が燕に放った間者は、悉く蘇代が買収し、虚偽の報告を斉に流させている。
「問題は燕より、宋でしょうな」
蘇代は話題を切り替えた。宋は斉に隣接する小国で、殷の遺民によって建国された。
楚、斉、魏の三国に挟まれながらも、手練手管を用いて、何とか今日まで宋は持ち堪えている。
しかし、君主偃が立ってからは、三国に対して妙に強硬な姿勢を見せ始めた。そもそも偃は残忍な男だった。君主の座も、兄である君主剔成を襲撃した後、簒奪したものだ。余談だが、剔成は斉に出奔している。
宋主となった偃は、手始めに楚、斉、魏へと攻め入った。
宋を小国と見下していた、三国は虚を突かれる形で、城、領土を奪われ、宋は包囲三百里を開いた。之により、宋は完全に隣接する三国を敵に回す形になった。
蘇代が宋へ赴いたのは、半ば斉王からの最終勧告を伝える為であった。宋に向かったものの、蘇代は宋主偃との謁見すら叶わなかった。宋主偃は、閔王よりも驕慢で贅を好み、放蕩奢侈に耽溺している。
諫める者があれば、自らの手で射殺し、気に入った女が臣下の妻ならば、臣下を斬殺し、之を奪い犯した。
宋主偃の無道の人民は慄き、殷を滅ぼした紂王の如き所業を繰り返した。
「宋主は王を称するつもりのようです」
蘇代は声音を落とした。
「何だと!?」
斉王にとって、宋は滅びた中山同様に、百乗の国に過ぎず、隷属国なのである。斉王からすれば、飼い犬に手を噛まれたようなものである。
「宋主は不遜にも、天を矢を射、地に鞭を打ち、あろうことか諸侯の像を鋳造して、厠に並べ、辱めておりまする」
見る見る内に、斉王の丸い顔を、赤く染まっていく。
「全知全能である孤の身を、百乗の国の君主が辱めるとは」
「よもや、宋主は匕首を向けるだけでは飽き足らず、王を号し、懼れ多くも大王様に並び立とうとしております」
近く斉は宋に五城を奪われている。宋に対する、斉王の怒りは燻り続けている。
蘇代の言葉が、斉王の火の出るような怒りに油を注いだ。
「大王様。いにしえの言葉が、このように残っています。世に興起する王者というものは、暴虐の君を誅し、無道の君を根絶し、不義を攻めるものだと。今こそ不義の権化とも言える、宋主を誅し、諸侯達に大王様に義を示すべきかと。さすれば、野狼の如く卑しい秦でさえ、大王様に阿ることでしょう」
斉王は蘇代の言に、眼を瞠る。今の斉王は、秦の動きに過敏なのである。
西の秦は伊闕の地にて、魏、韓、東周からなる合従軍を破った。
秦軍の総大将は、新星の将白起白起。三十万を超える合従軍を、白起は十万の寡兵で勝利したのである。世を震撼させたのは、白起の所業である。
彼は魏の総大将公孫衍を捕虜とし、二十四万の兵を彼の眼の前で斬首している。
途方もない数である。青史を遡っても、これ程の数の投降兵が斬首された記録は少ない。白起は魔人であるー。という噂が中国全土で飛び交っている。
ともあれ、秦は伊闕の戦いで圧倒的勝利をおさめたことによって、また一歩、東へと地歩を固めるに至った。破竹の勢いで東に領土を広げる秦。斉王が秦に対して、強い警戒心を抱いていることは知っている。
だからこそ、斉王の焦燥を利用しない手はない。斉王を煽り立て、宋に軍を向けさせる。大規模な戦となるだろう。宋への憤懣は、奈落の如く深い。
恐らく掃滅戦となる。たとえ小国であったとしても、其処には莫大な軍費が必要となる。ただでさえ、今は国主と人民の心が離れている。上厚下薄が敷衍し、人民の心には不満という萌芽が花を咲かせようとしている。
此処に、宋に向けての無理な出兵が重なれば、民の不満は爆発する。
すると何が起こるか。国の崩壊が始まるのである。
「急ぎ軍備を整えさせよう」
斉王から気炎が揚がる。蘇代は内心ほくそ笑んだ。
「御英断でございます。宋の掃滅戦によって、大王様の威光は天地に光破することでしょう」
斉王は意地の悪い笑みを返す。
「それともう一つ。其方に相談したい儀がある」
斉王の怒りが収束していく。
「何でしょう」
「秦より穣候が、使者として斉に入ったことは存じているな」
「ええ」
数日前、秦から穣候魏冄が斉王と会見した。彼は、秦の昭王の叔父であり、垂簾政治を行う、宣太后の弟にあたる。
この二人の姉弟が実質秦の全権を掌握しているといっても過言ではない。また布衣の身であった、白起を将軍として引き立てたのは、魏冄である。
欲深い男だが、莫迦な男ではない。先見の明を持ち、怖いくらい頭が切れる男だ。秦の宰相を務め、肥沃の地である、穣を下賜されてからは、穣候と呼ばれている。
「穣候は何故、大王様との会見をお求めになられたのですか?」
蘇代にとって、一番に警戒しなければならない相手が魏冄である。斉王の頬が不意に緩んだ。
「孤に帝号を贈りたいと申し出てきた」
(ちっ)蘇代は気色ばんだ。
(そういうことか。流石、穣候だな。手が早い)
「つまりこういうことですか。大王様は東帝。秦王は西帝となり、東西の王者として手を結び、共に半壁の天下を得ようと」実質の同盟である。東に領土を拡げたい秦は帝号を餌に、斉の動きを封じ込めようとしている。
表面上、秦と斉の二強で三晋、楚、燕を併呑し、中国を治めて行こうと提案するものだが、秦は虎狼の国だ。
半壁の天下などで、満足するはずもない。時機が整えば斉を侵す。燕に仕える、蘇代にとって、之は困る。
秦と斉が手を取り合う構図が完成すれば、燕など容易く飲み込まれてしまう。
とうの斉王は、帝号に旨味を感じている。帝は即ち天子。真の天の代弁者となる。
だが、周の天子は今も健在。秦王と斉王が帝となれば、中国に三人の帝が並び立つことになる。そんなふざけた話はない。陽や月が唯一無二であるように、帝もまた唯一無二の存在なのである。
「なるほど。秦の申し出をお聞き入れになれば、天下の諸侯は大王様を恨むでしょう。
しかし、お聞きにならなければ、秦は大王様を恨むでしょう。難しい問題です。
ですが、今大王様は宋を伐つことを第一と考えておられる。
なれば、諸侯と連合し、宋を伐つことに血道を上げられた方が良い。帝号を称すれば、恐らく宋を含む、諸侯が連合し、二強へ対抗しようとするでしょう」
斉王は渋面を作った。どうやら気に入らないらしい。
(この男は、本当に己が天子の器であると思っているのか)
表情に出さずとも、内心で悪罵する。
「ならばこうされるがよろしい。目下の目標は、あくまで宋の掃滅。しかし、軍備を整えるには、それなりの時を要します。連合するとなれば、尚更のこと。
一度、秦の申し出を諾と受け入れ、帝号を称されるが宜しい、水面下で私が、宋掃滅への下準備を進める為、魏や楚を回りましょう。
さすれば、一応の形として、秦の顔も立ちます。秦を敵に回すのは、得策ではないですから。帝号を称したことで、諸侯が恨みを抱き続けるようならば、帝号をお捨てになることです」
斉王は不承不承に頷いた。
「仕方あるまいか」
「秦と事を構えるのは、上策ではありません」
何として斉に宋を伐たせたかった。燕が斉に攻め入った折に、属国として宋が与力となれば面倒なことになる。
更に宋の掃滅戦で、なるたけ斉の財政を圧迫したいという思惑もある。
「うむ。承知した」
数日後、斉王は東帝を称した。同時に秦王が西帝となった。
反応は思った通り。諸侯は天子の存在を無視して。帝を号した斉と秦を批難した。
斉王は恋々としながらも、諸侯の反応を見遣って、帝号を捨てた。秦王も倣って、帝号を捨て去った。批難の声は収束し、蘇代は魏、楚を回った。宋攻めへの布石である。全て蘇代の思惑通りに物事は進んで行った。
斉王は蘇代に、全幅の信頼を置いている。黄金の扉が開かれると、大きく手を広げた、斉王が出迎えた。
「蘇代。ただいま戻りました」
長揖する。
「其方の帰還を心待ちにしていたぞ」
酒を更に発酵させたような、腐った息が鼻腔を襲う。
「燕の様子はどうであった?」
蘇代に席に付くように促す。斉王の眼に、猜疑の光が宿る。
「相変わらずとでも申し上げておきましょうか。燕王は大王様の権威を懼れ、これまで同様に臣従を誓っております」向かい合わせで座った、斉王は満足げに笑った。
「やはり燕王は臆病者よのう」
「燕は捨て置いて構わないでしょう。通年通り、朝貢の支度も進めているようでしたので」
「ほう。殊勝な心掛けじゃ。まぁ、おかしな動きを見せた所で、あのような弱国、一ヶ月もあれば捻り潰せるわ」
蘇代は胸の内で嘲笑った。斉王は燕が昇竜の勢いで、力を付けていることを知らない。
斉が燕に放った間者は、悉く蘇代が買収し、虚偽の報告を斉に流させている。
「問題は燕より、宋でしょうな」
蘇代は話題を切り替えた。宋は斉に隣接する小国で、殷の遺民によって建国された。
楚、斉、魏の三国に挟まれながらも、手練手管を用いて、何とか今日まで宋は持ち堪えている。
しかし、君主偃が立ってからは、三国に対して妙に強硬な姿勢を見せ始めた。そもそも偃は残忍な男だった。君主の座も、兄である君主剔成を襲撃した後、簒奪したものだ。余談だが、剔成は斉に出奔している。
宋主となった偃は、手始めに楚、斉、魏へと攻め入った。
宋を小国と見下していた、三国は虚を突かれる形で、城、領土を奪われ、宋は包囲三百里を開いた。之により、宋は完全に隣接する三国を敵に回す形になった。
蘇代が宋へ赴いたのは、半ば斉王からの最終勧告を伝える為であった。宋に向かったものの、蘇代は宋主偃との謁見すら叶わなかった。宋主偃は、閔王よりも驕慢で贅を好み、放蕩奢侈に耽溺している。
諫める者があれば、自らの手で射殺し、気に入った女が臣下の妻ならば、臣下を斬殺し、之を奪い犯した。
宋主偃の無道の人民は慄き、殷を滅ぼした紂王の如き所業を繰り返した。
「宋主は王を称するつもりのようです」
蘇代は声音を落とした。
「何だと!?」
斉王にとって、宋は滅びた中山同様に、百乗の国に過ぎず、隷属国なのである。斉王からすれば、飼い犬に手を噛まれたようなものである。
「宋主は不遜にも、天を矢を射、地に鞭を打ち、あろうことか諸侯の像を鋳造して、厠に並べ、辱めておりまする」
見る見る内に、斉王の丸い顔を、赤く染まっていく。
「全知全能である孤の身を、百乗の国の君主が辱めるとは」
「よもや、宋主は匕首を向けるだけでは飽き足らず、王を号し、懼れ多くも大王様に並び立とうとしております」
近く斉は宋に五城を奪われている。宋に対する、斉王の怒りは燻り続けている。
蘇代の言葉が、斉王の火の出るような怒りに油を注いだ。
「大王様。いにしえの言葉が、このように残っています。世に興起する王者というものは、暴虐の君を誅し、無道の君を根絶し、不義を攻めるものだと。今こそ不義の権化とも言える、宋主を誅し、諸侯達に大王様に義を示すべきかと。さすれば、野狼の如く卑しい秦でさえ、大王様に阿ることでしょう」
斉王は蘇代の言に、眼を瞠る。今の斉王は、秦の動きに過敏なのである。
西の秦は伊闕の地にて、魏、韓、東周からなる合従軍を破った。
秦軍の総大将は、新星の将白起白起。三十万を超える合従軍を、白起は十万の寡兵で勝利したのである。世を震撼させたのは、白起の所業である。
彼は魏の総大将公孫衍を捕虜とし、二十四万の兵を彼の眼の前で斬首している。
途方もない数である。青史を遡っても、これ程の数の投降兵が斬首された記録は少ない。白起は魔人であるー。という噂が中国全土で飛び交っている。
ともあれ、秦は伊闕の戦いで圧倒的勝利をおさめたことによって、また一歩、東へと地歩を固めるに至った。破竹の勢いで東に領土を広げる秦。斉王が秦に対して、強い警戒心を抱いていることは知っている。
だからこそ、斉王の焦燥を利用しない手はない。斉王を煽り立て、宋に軍を向けさせる。大規模な戦となるだろう。宋への憤懣は、奈落の如く深い。
恐らく掃滅戦となる。たとえ小国であったとしても、其処には莫大な軍費が必要となる。ただでさえ、今は国主と人民の心が離れている。上厚下薄が敷衍し、人民の心には不満という萌芽が花を咲かせようとしている。
此処に、宋に向けての無理な出兵が重なれば、民の不満は爆発する。
すると何が起こるか。国の崩壊が始まるのである。
「急ぎ軍備を整えさせよう」
斉王から気炎が揚がる。蘇代は内心ほくそ笑んだ。
「御英断でございます。宋の掃滅戦によって、大王様の威光は天地に光破することでしょう」
斉王は意地の悪い笑みを返す。
「それともう一つ。其方に相談したい儀がある」
斉王の怒りが収束していく。
「何でしょう」
「秦より穣候が、使者として斉に入ったことは存じているな」
「ええ」
数日前、秦から穣候魏冄が斉王と会見した。彼は、秦の昭王の叔父であり、垂簾政治を行う、宣太后の弟にあたる。
この二人の姉弟が実質秦の全権を掌握しているといっても過言ではない。また布衣の身であった、白起を将軍として引き立てたのは、魏冄である。
欲深い男だが、莫迦な男ではない。先見の明を持ち、怖いくらい頭が切れる男だ。秦の宰相を務め、肥沃の地である、穣を下賜されてからは、穣候と呼ばれている。
「穣候は何故、大王様との会見をお求めになられたのですか?」
蘇代にとって、一番に警戒しなければならない相手が魏冄である。斉王の頬が不意に緩んだ。
「孤に帝号を贈りたいと申し出てきた」
(ちっ)蘇代は気色ばんだ。
(そういうことか。流石、穣候だな。手が早い)
「つまりこういうことですか。大王様は東帝。秦王は西帝となり、東西の王者として手を結び、共に半壁の天下を得ようと」実質の同盟である。東に領土を拡げたい秦は帝号を餌に、斉の動きを封じ込めようとしている。
表面上、秦と斉の二強で三晋、楚、燕を併呑し、中国を治めて行こうと提案するものだが、秦は虎狼の国だ。
半壁の天下などで、満足するはずもない。時機が整えば斉を侵す。燕に仕える、蘇代にとって、之は困る。
秦と斉が手を取り合う構図が完成すれば、燕など容易く飲み込まれてしまう。
とうの斉王は、帝号に旨味を感じている。帝は即ち天子。真の天の代弁者となる。
だが、周の天子は今も健在。秦王と斉王が帝となれば、中国に三人の帝が並び立つことになる。そんなふざけた話はない。陽や月が唯一無二であるように、帝もまた唯一無二の存在なのである。
「なるほど。秦の申し出をお聞き入れになれば、天下の諸侯は大王様を恨むでしょう。
しかし、お聞きにならなければ、秦は大王様を恨むでしょう。難しい問題です。
ですが、今大王様は宋を伐つことを第一と考えておられる。
なれば、諸侯と連合し、宋を伐つことに血道を上げられた方が良い。帝号を称すれば、恐らく宋を含む、諸侯が連合し、二強へ対抗しようとするでしょう」
斉王は渋面を作った。どうやら気に入らないらしい。
(この男は、本当に己が天子の器であると思っているのか)
表情に出さずとも、内心で悪罵する。
「ならばこうされるがよろしい。目下の目標は、あくまで宋の掃滅。しかし、軍備を整えるには、それなりの時を要します。連合するとなれば、尚更のこと。
一度、秦の申し出を諾と受け入れ、帝号を称されるが宜しい、水面下で私が、宋掃滅への下準備を進める為、魏や楚を回りましょう。
さすれば、一応の形として、秦の顔も立ちます。秦を敵に回すのは、得策ではないですから。帝号を称したことで、諸侯が恨みを抱き続けるようならば、帝号をお捨てになることです」
斉王は不承不承に頷いた。
「仕方あるまいか」
「秦と事を構えるのは、上策ではありません」
何として斉に宋を伐たせたかった。燕が斉に攻め入った折に、属国として宋が与力となれば面倒なことになる。
更に宋の掃滅戦で、なるたけ斉の財政を圧迫したいという思惑もある。
「うむ。承知した」
数日後、斉王は東帝を称した。同時に秦王が西帝となった。
反応は思った通り。諸侯は天子の存在を無視して。帝を号した斉と秦を批難した。
斉王は恋々としながらも、諸侯の反応を見遣って、帝号を捨てた。秦王も倣って、帝号を捨て去った。批難の声は収束し、蘇代は魏、楚を回った。宋攻めへの布石である。全て蘇代の思惑通りに物事は進んで行った。
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