楽毅 大鵬伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
75 / 140
宋攻略戦

 四

しおりを挟む
 楽毅は単父ぜんほという城邑を三日で陥落させた。長きに亘る籠城戦を覚悟していたが、
城邑を守禦しゅぎょする、宋吉そうきつ将軍を篭絡ろうらくし、門を開けさせた。
 
 条件は単父の領民の保護。投降兵の受け入れである。領民、兵士共に疲弊の極にあった。宋君主は王を号し、今はを無道によって滅ぼしたけつになぞらえて、桀宋けつそうと呼ばれている。
 
 淫楽奢侈いんらくしゃしの為、民衆から限界まで税を絞りとり、結果、宋王の傲慢が諸国の不興を買い、大戦へと突入した。兵士達にとって、望まない戦であった。最早、人民達には国をー。君主を戴く想いはない。
 
 宋吉が長く宋に仕えた清廉な軍人であった。白髪の太守宋吉は、首を差し出す覚悟を以って、楽毅の元に膝をついた。 縄を打たれた、彼はさめざめと泣き、無辜むこの民等、麾下の命を乞うた。

「お前の言う通り、彼等の命は保障しよう」

「ありがとうございます」

「では。せめてこの首を」
 宋吉は地面を額に押し付け、うなじを露わにした。楽毅は胡床から立ち上がり、彼に歩み寄った。

「生きろ。宋吉」

「えっ?」
 涙に塗れた、面を上げる。

「燕はお前のような清き戦士を求めている」

「しかしー。私は」

「人には皆、取捨選択の権がある。生まれなど関係ない。お前自身で、忠義を尽くすべき相手を選ぶのだ」

「私など生きてよいのでしょうか。国を裏切った男です」

「お前は守るべき、民や麾下の為に命を投げ出した。誰が裏切り者など蔑すもうか」
 楽毅は宋吉の震える肩に手を置いた。

「楽毅殿」
 声を上げて泣く。

「この命、楽毅殿の為にお捧げ致します」

「頼りにするぞ」
 楽毅によって単父の無血開城がなされた。麾下五万は、楽毅の清廉ぶりに心を打たれ心服した。同様に帰順した、宋の民、兵士も、すすんで悦服した。
 少年時代から、報われない日々を送り、己を責め続け、主を探し求め、旅塵りょじんに塗れ続けた、楽毅だからこそ、捕虜となった民等に心根から寄り添うことができる。
 
 臥薪嘗胆がしんしょうたんの日々は無駄ではなかった。地を這いつくばるような想いが、楽毅を大将軍の器へと昇華させた。
 
 
しおりを挟む

処理中です...