楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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争乱

 一

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 陽の光も届かない、えた臭いが充満する、独房の中で、田単でんたんは慌てふためく獄吏達の声に、耳を傾けた。

「おい!聞いたか!?燕が戦争を仕掛けてきたらしい」
 胴間声どうまごえが監獄内に響く。声の主は酷く動転しているようで、所々で声が裏返っている。

「はん?燕が。北の小国が血迷ったか。斉の付庸国に何ができる」
 打って変わってもう一人の獄吏は、蔑むように鼻を鳴らす。

「それがよ。噂では、西の霊丘れいきゅうが陥とされたようなんだよ」

「馬鹿な。霊丘は西地で一番に堅いはずだ。何かの間違いだろ」

「なんでも燕軍を率いているのは、楽毅がくきって将軍らしい」

(楽毅殿―)
 田単は創痍そういを起こし、頭をもたげた。

「聞かねぇ名だ」
「それが恐ろしく強いらしいのよ。軍を鍛え上げる為に、何度も北に遠征をしては、蛮夷共を悉く北方へと追いやったらしい。蛮族共には白翼将軍って、大層懼れられているって話だ」

「でも、そんな凄い奴なら、何故今の今まで口の端に上らなかったのかねぇ」
 唸る声が反響する。

「さぁ。まさか、燕の連中、斉との戦争を見越して、あえて楽毅の名を伏せていたってことはないか」

「邪推が過ぎるだろ。第一、燕が攻めてきたって話自体、信憑性が薄いんだ。あの燕に、斉を独力で斃す力なんてないだろうがよ。それは無謀ってもんだ」

「こんな噂もある」

「何だよ」

「燕は密かに秦を含む五国と手を結び、連合軍を率いて、斉を潰す気でいると」 
 静寂が訪れる。まるで二人の獄吏の時が制止しているようだ。
 そして、突然哄笑が沸いた。

「つまらない冗談だ」

「やっぱり有り得ないと思うか?」

「ああ。有り得ないね。秦は天下から嫌われている。その秦と六国が手を取り合うとは、到底思えねぇ。過去の合従戦を思い返してみろ。標的は全て秦だったろうが」

「ああ。確かに」

「この馬鹿。つまらねぇ噂に振り回されてるんじゃねぇよ」
 再び哄笑の渦が起こる。

「そういえば、二番に放り込まれている小僧は、燕の陰謀論を上司に説いて、投獄されたって話だったよな」

「ああ。あれは阿呆だよ。なんでも蘇代そだい殿が燕に通じているだの、今の斉王の政治では、国はいずれ滅びるなど、市中で触れ回っていたらしい。あれは瘋癲ふうてんだぜ」

「で、一ヶ月後に処刑されると」
「当然だ。幾ら気が触れた狂人でも、お上を衆人の面前で罵倒すればそうなる。之までも、お上に逆らった馬鹿な連中は悉く処断されている」

「まぁ、俺達には関係のない話か」

「そういうことだ」
 二人の獄吏の声が遠ざかっていく。
 
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