楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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争乱

 二

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(何と愚かなことだろう)
 田単は声を押し殺して、涙を流した。懼れていたことが現実となった。蘇代の言った通り、燕は野狼のように、息を潜め、斉を伐つ機会を窺っていたのだ。そして、自惚れる斉の眼を掻い潜って、何年も何十年も費やして、斉を斃す構想を練り続けていた。時に恥辱に塗れても、燕王はこの時の為、全てを賭けた。
 
 斉にとって、最悪の形で構想は現実のものとなった。六国連合―。獄吏共はデマと一蹴したが、デマなどではない。六国が手を取り合い、斉に攻め入れば、間違いなく、この国は滅びる。ましてや、今この国は、王室と人民が一体ではない。
 
 上厚下薄じょうこうげはくが横行し、民は王室を軽んじるようになった。連合軍に立ち向かうならば、真の意味で国を一つにしなくてはならない。しかも、旗頭である燕軍を率いているのは、兄弟子である楽毅というではないか。
 
 孫師そんしは楽毅を、天賦の才を有した一番弟子と称した。
 
 斉は危急にある。だが、牢獄にいる、己には何をすることもできない。悲しき哉、斉の危機を誰よりも肌で感じている、己が投獄されている。

「くそ!くそ!くそ!」
 拳を石の床に打ち付ける。何もできない自分を呪う気持ちと、眼の前の窮状から、都合の良い解釈で眼を逸らそうとする獄吏達への苛立ちが綯交ぜとなり、胸中で蜷局を巻く。拳の皮が剥がれ、血で塗れても、蜷局は竜巻のようにうねり続ける。

「おい。あんた」
 顔を上げると、先ほどの獄吏とは、別の獄吏の姿が、檻の向こうにあった。
 彼は冷めた飯を運搬する係の者だった。寡黙な男で、之まで田単に話かけてきたことはなかった。
 田単は虚ろな眼を向けた。

「飯は必要ない」
 獄吏の手には、いつのように冷めた飯を乗せた盆はない。

「何故、知っていた?」
 獄吏は周囲を警戒する様子で、声を潜めた。

「知っていたとは?」
「俺はあんたが市で、行き交う人々に、斉の窮状を訴えかけている姿を眼にした」

「ああ。そのことか。何だ。あなたも僕を嘲笑いに来たのですか?狂っていると」
 田単は自嘲気味に、唇を歪めた。

「違う。知りたいのだ。何故、あんたが未来を予測できたのか」
 男の声には気力がこもっていた。心根から問うてきている。

「以前、五官の館で、蘇代殿にお目にかかりました。あの御方の言には、終始含むものがあった。そして、彼は語ったのです。燕王の怨懣えんまんは深いものであると」

「しかし、それだけでは」

「斉を救いたいのなら、柱石となる者を、斉王の傍に置くことだ」
 田単は記憶の淵に残る、蘇代の言葉をなぞった。

「蘇代はそう言ったのか」

「ええ。まるで斉の滅びを予見しているような一言でした」

「だが、何故、蘇代があんたにそのようなことを。恐らく蘇代は燕に通じている」
 田単は鼻を鳴らした。

「知りませんよ。僕は下級役人に過ぎませんから、遊び半分で漏らしたのでは。現に窮状を訴えた、僕は狂人扱いされ、今や死刑宣告を待つ身です」
 情けなくて涙が溢れてくる。

「あんたは勤王きんのうをしきりに説いていたな。それは何故だ」
 獄吏の問いは、煩わしかったが、胸の内を誰にも語ってこなかったせいか、自然と唇が解けていく。

「僕は一度、天子様のご尊顔を拝したことがあります」
 獄吏の顔に、驚愕が滲む。

「天子様は窶れておられました。当然でしょう。諸侯は天子を軽んじ、己の権威の為に、戦に明け暮れているのですから。世界は醜い野心で満たされている。
天子様は今の世の有り様を痛み悲しんでおられました。そして、あろうことか僕の前で涙を流されたのです。今の世に、戦乱に嘆き、人民を想い、涙を流すことのできる、諸侯など存在するでしょうか。
僕は天子様こそ、この世の調停者なのだと悟りました。諸侯、人民が天子様を敬い、翕然きゅうぜんとなれば、幾星霜と続いた無窮の戦乱は終わる。天子様の御稜威みいつこそが、天下泰平を齎す光輝なのです」
 獄吏は何も答えなかった。ただ黙然と、失意に項垂れる、田単に眼差しを向けていた。刃のような鋭い目つきだ。だが、異様な凄味がある。

「之も天命かもしれん」と呟くと、
 獄吏はおもむろに、鍵を取り出し、あろうことか戸を放った。

「俺と共に来い。逃がしてやる」

「何故?」
 理解が追い付けて来ない。

「俺の名は候葉こうよう―。いや、あんたの前で嘘はよそう」
 獄吏は苦笑を浮かべた。

「本当の名は、姜鵬牙きょうほうが姜斉きょうさいの祖、太公望呂尚たいこうぼうりょしょう太公望呂尚の末裔だ」時が停まったように、田単は固まった。
 
 斉は殷を滅ぼした、周の文王と武王に仕えた、呂尚によって封建された国である。
 呂尚の氏は羌。呂は姓であり、斉は羌斉。呂斉ともいう。そもそも、今の田氏は簒奪によって王位を奪ったのである。
 田氏を遡れば、元は陳氏を名乗っていた。天下の覇者となった、斉の桓公の頃に、陳の亡命公子である、陳完ちんかんが斉に入り、田氏に改姓したことが始まりである。
 
 田氏は斉の簡公かんこうの代に主をしいして、国政を聾断ろうだんし、その約百年後には、康公こうこうを追放して、田和でんわが自ら諸侯となった。
 
 同じく姜氏の者は、後顧こうこの憂いを断つ為に、田氏により悉く放逐、または処断されたという。
 
 田単は獄吏の凄味にあてられて、四肢の硬直を解けないでいた。
 斉が田氏によって、内実共に支配され始めたのは、簡公の御代みよである。即ち二百年余り前の話になる。 
 二百年と聞けば、途方もない年月であるが、王位を簒奪された側の姜氏は、田氏への怨みは奈落の如く、今も深いものだろう。傍系の末流であるが、己も田氏なのである。眼の前の男にとっては、父祖の仇ともいえる。

「何故、僕に本当の名を」
 疑念が頭の中で堂々巡りを繰り返している。男は逃がす手引きをすると告げた。何故だ。彼が本当に、太公望呂尚の直流の子孫ならば、田氏の己は怨敵である。

「話せば長くなる。今は俺と共に来い。死にたいのか」
 今は唯々諾々いいだくだくと応じるしかなかった。
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