楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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田斉

 六

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 昌国一帯の民を、東へと向かわせた。彼等が向かうは、一様に王都臨淄である。既に魏竜の手の者が寄越した報せでは、人口による爆発が起こり、難民達による、食糧の奪いが発生しているという。楽毅の思惑通りだった。斉王朝の腐敗による、影響は顕著で、高官は保身の為に、商人達から食糧を買い占めている。
 
 本来、難民に回るはずの食糧の流れが、高官達の手により滞り、難民はおろか、もとの臨淄達の領民にすら、行き渡らないという有様だ。 更には、人民を守護する軍部の上官達は、競うように臨淄から抜け出し、東へと荷を纏めて逃げ出しているという。

「保って、後三か月という所か」
 昌国にある、官衙かんがを占拠し、司令部として置いていた。最奥の一室が、楽毅の執務室となっている。

「少し良いかな」
 戸を開けて入ってきたのは、孟嘗君だった。慌てて腰を上げようとすると、孟嘗君は眼で制した。床几を挟み、向かい合う。

「楽毅将軍。見事な軍略だ。我が国の民の犠牲を最小限にとどめ、本来数年は要するであろう、臨淄の攻略を数か月で成し遂げようとしている」
 穏やかな口調であったが、醸し出す雰囲気からは、哀愁のようなものが滲み出ている。

「まだ戦は終わっていません。斉王が降伏の意を示さなければ、私は臨淄を万斛ばんこくの血で染め上げることになる」
 今、己の軍略で犠牲を抑えているが、斉王が抗戦を叫べば、武力を使用しなくてはならない。兵士達は何に命を懸けるのか。恩賞である。畢竟―。彼等が求めるのは力による、蹂躙。財を略奪し、女を奪う。中には弱者をいたぶることで快楽を覚える者もいる。それは、幾星霜と続いてきた、弱肉強食の理なのだ。
 
 七十万に及ぶ、星の数のような兵士を、己一人で統制を取るのは限界がある。彼等は戦場が孕む、狂気を帯びた空気によって、血に飢えた狼のように転化する可能性を秘めている。ましてや、国籍も文化も違う、多種多様な人種が混ざり合っている連合軍である。楽毅が此度の為に、創生した厳しい軍規によって律してはいるが、いつ狼共が桎梏を食い千切るから知れたものではない。現に南方を任せている、秦軍の中には、許可なく略奪を働き始めている者もいる。

「斉王は降伏をすると思いますか?」
 楽毅の問いに、孟嘗君は項垂れ唸った。

「分からん。自尊心だけは人一倍強い男だ。人民を想う心はない。ましてや、降伏した後のことを考えれば、奴は徹底抗戦を宣言するやもしれん」

「そうですか」
 重い沈黙が流れる。斉王を宰相として支えてきた、孟嘗君が言うのだ
 斉王の性質に間違いはないだろう。もし、燕が斉の降伏を受け入れ、斉王を生かしたとしても、斉は大きく土地を割かれ、燕の付庸国となる。つまり、燕王が受けた屈辱を、斉王は同じく味わうことになる。

「燕王はやはり、斉地を焼き尽くすことを望んでおられるのか?」

 楽毅は頭を振るう。

「大王が抱える、斉の怨みは確かに深いです。しかし、罪は斉王にあり、無辜の民にないことは承知しておられます。懼れながら申し上げますに、大王の器量は、斉王を遥かに凌ぎます」

「そうか。燕王は不世出の出来物だな。斉の隷属として、辛酸を舐め続け、ひたすらに力を蓄え続けた。更には、斉の出方しだいでは、人命を保障して下さる。燕王ほどの御方ならば、天下を統べることが叶うかもしれん」
 孟嘗君が悲しそうに、目尻に深い皺を刻んだ。

「楽毅将軍。君は幸せ者だな。臣下にとって、己が命を捧げる相手が、英邁えいまいな君主であるということは、何ものにも代えがたい幸福というものだ。私も燕王のような、君主のもとで、腕を振るいたかったよ」
 言い終わると、孟嘗君は立ち上がり、背を向けた。

「どのような結果になろうと、私は君を怨みはしない。君は総帥の立場でありながら、誰よりも我が国の民のことを慮ってくれた。あとはー。そうさな、天帝のみが知っておられる」
 去った孟嘗君。消えた戸の先には、物悲しい闇が凝っている。身が引き裂かれるような想いであろう。無実の罪によって、国を追われ、斉王に憎しみを抱きながら、祖国の民は、我が子のように愛しておられる。
 
 魏は孟嘗君の忠誠心を測る為に、名代として遣わしたのだろう。

(昭王よ。あなたは何と惨いことを)
 心の底から魏の昭王のもとに、残らずに良かったと思える。楽毅は独り、重くなった瞼を指の腹で抑えた。
 
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