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田斉
十五
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姜鵬牙は官衙を抜け、夜陰に紛れて城郭を後にした。一里先の茂みに隠していた、馬に跨る。
その時、闇夜の先に浮かぶ、銀色の光を認めた。天頂の蒼月の光芒により、光の主の輪郭が徐々に鮮明になっていく。騎乗する、白銀の鎧を纏った男。きんと大気が斬れる音がした。抜刀の音だった。
蒼輝を宿す剣。剣気が逆巻いている。男の鎧から放たれる、乱反射する輝きが、夜光虫のように、剣の周囲に渦巻く。
「白き魔人」
確信があった。その渾名の通り、男の体毛は睫毛に至るまで、雪のように白い。
「ご名答」
かつかつと乾いた土を踏みしめ、白起を乗せた馬がゆっくりと間合いを詰めてくる。
「いつからだ?」
尾行には細心の注意を払っていたし、己は影に生きる者として、豊富な経験と絶対の自信がある。
(この俺が尾行に気が付かないはずがない)
人は呼吸をする。素人は気配を消そうと、まず呼吸をなるたけ減らすように努める。しかし、実の所、人は肌で呼吸する。肌の呼吸こそ気配なのだ。卓越した者なら、肌の呼吸を止める。之で気配を絶つのだ。
だが、あくまでこの極意を知り、技を習得しているのは、幾星霜と日陰で生きることを強いられてきた一族のみ。
間諜を生業とする、姜氏党に一子相伝と受け継がれてきたものだ。
「お前が楽毅のもとを去ってからずっとだ」
瞠目した。
(この男、極意を知らず、超然的な感覚だけで、気配を消したというのか)
「お前、自分の技を過大評価し過ぎだよ」
白起は綺麗な顔を歪めた。一つとて欠点がない。だが、其処に命の息吹はない。銀の双眸の奥にあるのは虚無だ。
「なるほど。通りで平然と何十万を虐殺できるわけだ。正に人の皮を被った、化け物だな」
天はこの男に戦神の如く力を与えた。しかし、代償として、本来、人にあるべきはずのものを失っている。
「化け物とは好き放題言ってくれるな」
尚も白起の馬はゆっくりと、歩を進める。主である白起は鷹揚と構えてはいるが、その実、肌を刺すほどの殺気を放っている。銀を想起させる相貌と打って変わって、放たれる気配は、純然たる黒。冥界の瘴気を髣髴とさせる。
「お前を殺して、ささっと終わりにするとしよう。楽毅の茶番にも辟易としている」
「あの男は武力を用いながらも、武力に頼るだけでは、天下を匡すことはできないと理解している。だからこそ、殺戮ではなく、斉王の降伏によって、斉の地を治めよう考えている」
「くだらない」
白起は空疎の眼を向けて唾棄した。
「彼が仕える燕は、斉の武力によって蹂躙された。しかし、燕がまた同じことを繰り返せば、斉が併呑されたとて、民は永遠へと燕を怨み続けることになる」
悪意のもとに、歴史は繰り返され続けてきた。
今、二人の男が敵、味方と別れながらも、単純な武力だけの解決ではなく、他の道を懸命に探り続けている。楽毅は武だけに頼らない、天下泰平の世を築こうとし、田単も対話によって、斉を守ろうと奔走している。立場も生まれも、置かれている情況も違う。
だが、二人の奥にある、根本的な想いは重なっている。
泰平の世だ。道は違うかもしれない。だが、あの真っ直ぐな眸の先が求めている、景色は同じ風景が拡がっているはずだ。
(二人の内、どちらかが負の歴史を終わらせる)
そんな予感がしてならない。だからこそ、己は田単に命を預け、敵ながら楽毅に惹かれているのだろう。
「ならば、もう一つの答えはこうだ。斉の民を皆殺しにする。すれば、現今の斉のような憂き目にあわなくて済む。そもそも、斉が燕を生かしておいたのが間違いだった。北方を焼き払うべきだったのだ。斉王の甘さが、窮状を招いた」
「そうやって、お前は全てを焼き払おうというのか」
この男と話していると、肚の底が冷えていく。この男とは決して分かり合えない。
人とは違う次元で生きている。たとえ、戦火が中国全土を覆い、全ての人類が死に絶えても、彼は口笛を吹いて、平然と焦土を歩くだろう。
「人の繁殖力ってのは、蜚蠊以上なんだぜ。幾ら減らそうが、蛆のようにわいて来やがる」
白起はわざとらしく、首を竦めた。
「とりあえずさ、話はもう終わりだ。お前もう死ねよ」
銀の眼光が尾を引く。馬が間合いを詰めてくる。
(疾い)
小刀を抜き去る。馳せ違う。火花が舞う。
初手で分かる。この男―。俺より遥かに強い。白起の総身から、神気が漲っている。蒼い軌跡が、生き物のようにうねる。
白起は嬉々とした表情で、一つの呼吸の乱れもなく、攻撃を繰り返してくる。
防戦一方もいいところだ。五回の斬撃に、一回は肌を裂いていく。
己が流す、血の臭気が、躰に纏わりつく。
(今、俺がやるべきことは、白起に討ち勝つことではない)
口惜しさはある。しかし、あまりにも力量の差が歴然としている。
姜鵬牙は斬撃を防ぎつつ、馬首を反らせた。
「逃げる気か」
馬肚を蹴る。馬が駆けた。疾駆。
振り返る。白起の姿は後方にない。刹那。
「逃がすかよ」
耳元で魔人の囁き。
(一瞬で並ばれた)
絶句。蒼き刃が来る。薙いだ一閃。
防ぐ。小刀が弧を描き、闇夜に消える。
次の一撃、来る。
田単の姿が脳裏に浮かんだ。俺を友と呼んでくれた男。
姜氏一族は、田氏より国を簒奪されてから、ずっと逼塞して生きてきた。
迫害を受けてきた経験からか、一族は他者を信じることなく、一族同士で婚姻を重ね、細々と血を絶やさないように努めてきた。
だからこそ、外の世界に友を求めることはしてこなかった。でも、今なら思う。俺達はもっと、悲観的にならず、外の世界の人間と触れ合うべきだったのだ。勿論、賤しい人間は多くいる。
しかし、ごく少数であるが、田単のような純粋な心を持つ若者も存在する。田単には光が満ち溢れている。あれほどに斉を愛している者もいない。
だから、田単が内包する愛に触れ、俺達は過去の柵を取っ払って、斉という国を愛そうと思った。
今は姜氏や田氏などどうでもいい。ただ国の為にー。田単の為ならば、命を懸けられる。
「俺は死ねない!」
喉を正確に狙った、一突き。
血が溢れた。
「お前」
右腕を刃が貫いている。しかし、刃は止まった。
右腕に走る、灼けるような痛み。
剣が腕から抜ける。
「しつこい野郎だな」
奥歯を噛み締め、血が滴る腕で手綱を曳いた。
「駆けろ!」
白起が追い立てようと、馬首を返した瞬間。
二人の狭間に、流星の如き、鮮烈な光が走った。白起の剣が無軌道に宙を舞い、地に突き刺さる。
閃光の正体は、槍だと分かった。
「行け!」
楽毅の声が、轟いた。
その時、闇夜の先に浮かぶ、銀色の光を認めた。天頂の蒼月の光芒により、光の主の輪郭が徐々に鮮明になっていく。騎乗する、白銀の鎧を纏った男。きんと大気が斬れる音がした。抜刀の音だった。
蒼輝を宿す剣。剣気が逆巻いている。男の鎧から放たれる、乱反射する輝きが、夜光虫のように、剣の周囲に渦巻く。
「白き魔人」
確信があった。その渾名の通り、男の体毛は睫毛に至るまで、雪のように白い。
「ご名答」
かつかつと乾いた土を踏みしめ、白起を乗せた馬がゆっくりと間合いを詰めてくる。
「いつからだ?」
尾行には細心の注意を払っていたし、己は影に生きる者として、豊富な経験と絶対の自信がある。
(この俺が尾行に気が付かないはずがない)
人は呼吸をする。素人は気配を消そうと、まず呼吸をなるたけ減らすように努める。しかし、実の所、人は肌で呼吸する。肌の呼吸こそ気配なのだ。卓越した者なら、肌の呼吸を止める。之で気配を絶つのだ。
だが、あくまでこの極意を知り、技を習得しているのは、幾星霜と日陰で生きることを強いられてきた一族のみ。
間諜を生業とする、姜氏党に一子相伝と受け継がれてきたものだ。
「お前が楽毅のもとを去ってからずっとだ」
瞠目した。
(この男、極意を知らず、超然的な感覚だけで、気配を消したというのか)
「お前、自分の技を過大評価し過ぎだよ」
白起は綺麗な顔を歪めた。一つとて欠点がない。だが、其処に命の息吹はない。銀の双眸の奥にあるのは虚無だ。
「なるほど。通りで平然と何十万を虐殺できるわけだ。正に人の皮を被った、化け物だな」
天はこの男に戦神の如く力を与えた。しかし、代償として、本来、人にあるべきはずのものを失っている。
「化け物とは好き放題言ってくれるな」
尚も白起の馬はゆっくりと、歩を進める。主である白起は鷹揚と構えてはいるが、その実、肌を刺すほどの殺気を放っている。銀を想起させる相貌と打って変わって、放たれる気配は、純然たる黒。冥界の瘴気を髣髴とさせる。
「お前を殺して、ささっと終わりにするとしよう。楽毅の茶番にも辟易としている」
「あの男は武力を用いながらも、武力に頼るだけでは、天下を匡すことはできないと理解している。だからこそ、殺戮ではなく、斉王の降伏によって、斉の地を治めよう考えている」
「くだらない」
白起は空疎の眼を向けて唾棄した。
「彼が仕える燕は、斉の武力によって蹂躙された。しかし、燕がまた同じことを繰り返せば、斉が併呑されたとて、民は永遠へと燕を怨み続けることになる」
悪意のもとに、歴史は繰り返され続けてきた。
今、二人の男が敵、味方と別れながらも、単純な武力だけの解決ではなく、他の道を懸命に探り続けている。楽毅は武だけに頼らない、天下泰平の世を築こうとし、田単も対話によって、斉を守ろうと奔走している。立場も生まれも、置かれている情況も違う。
だが、二人の奥にある、根本的な想いは重なっている。
泰平の世だ。道は違うかもしれない。だが、あの真っ直ぐな眸の先が求めている、景色は同じ風景が拡がっているはずだ。
(二人の内、どちらかが負の歴史を終わらせる)
そんな予感がしてならない。だからこそ、己は田単に命を預け、敵ながら楽毅に惹かれているのだろう。
「ならば、もう一つの答えはこうだ。斉の民を皆殺しにする。すれば、現今の斉のような憂き目にあわなくて済む。そもそも、斉が燕を生かしておいたのが間違いだった。北方を焼き払うべきだったのだ。斉王の甘さが、窮状を招いた」
「そうやって、お前は全てを焼き払おうというのか」
この男と話していると、肚の底が冷えていく。この男とは決して分かり合えない。
人とは違う次元で生きている。たとえ、戦火が中国全土を覆い、全ての人類が死に絶えても、彼は口笛を吹いて、平然と焦土を歩くだろう。
「人の繁殖力ってのは、蜚蠊以上なんだぜ。幾ら減らそうが、蛆のようにわいて来やがる」
白起はわざとらしく、首を竦めた。
「とりあえずさ、話はもう終わりだ。お前もう死ねよ」
銀の眼光が尾を引く。馬が間合いを詰めてくる。
(疾い)
小刀を抜き去る。馳せ違う。火花が舞う。
初手で分かる。この男―。俺より遥かに強い。白起の総身から、神気が漲っている。蒼い軌跡が、生き物のようにうねる。
白起は嬉々とした表情で、一つの呼吸の乱れもなく、攻撃を繰り返してくる。
防戦一方もいいところだ。五回の斬撃に、一回は肌を裂いていく。
己が流す、血の臭気が、躰に纏わりつく。
(今、俺がやるべきことは、白起に討ち勝つことではない)
口惜しさはある。しかし、あまりにも力量の差が歴然としている。
姜鵬牙は斬撃を防ぎつつ、馬首を反らせた。
「逃げる気か」
馬肚を蹴る。馬が駆けた。疾駆。
振り返る。白起の姿は後方にない。刹那。
「逃がすかよ」
耳元で魔人の囁き。
(一瞬で並ばれた)
絶句。蒼き刃が来る。薙いだ一閃。
防ぐ。小刀が弧を描き、闇夜に消える。
次の一撃、来る。
田単の姿が脳裏に浮かんだ。俺を友と呼んでくれた男。
姜氏一族は、田氏より国を簒奪されてから、ずっと逼塞して生きてきた。
迫害を受けてきた経験からか、一族は他者を信じることなく、一族同士で婚姻を重ね、細々と血を絶やさないように努めてきた。
だからこそ、外の世界に友を求めることはしてこなかった。でも、今なら思う。俺達はもっと、悲観的にならず、外の世界の人間と触れ合うべきだったのだ。勿論、賤しい人間は多くいる。
しかし、ごく少数であるが、田単のような純粋な心を持つ若者も存在する。田単には光が満ち溢れている。あれほどに斉を愛している者もいない。
だから、田単が内包する愛に触れ、俺達は過去の柵を取っ払って、斉という国を愛そうと思った。
今は姜氏や田氏などどうでもいい。ただ国の為にー。田単の為ならば、命を懸けられる。
「俺は死ねない!」
喉を正確に狙った、一突き。
血が溢れた。
「お前」
右腕を刃が貫いている。しかし、刃は止まった。
右腕に走る、灼けるような痛み。
剣が腕から抜ける。
「しつこい野郎だな」
奥歯を噛み締め、血が滴る腕で手綱を曳いた。
「駆けろ!」
白起が追い立てようと、馬首を返した瞬間。
二人の狭間に、流星の如き、鮮烈な光が走った。白起の剣が無軌道に宙を舞い、地に突き刺さる。
閃光の正体は、槍だと分かった。
「行け!」
楽毅の声が、轟いた。
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