楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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 三

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 己という人間を形成していた、核のようなものが、蠢動しゅんどうを起こし、形を変えようとしている。爪先に至るまで、殺意が浸透していく。

「誰だー。誰が」
 双眸から零れ落ちるのは、紅き涙。染まっていくのを感じる。憎しみに。核がぼこぼこと音を立てる。

「殺してやる。父と母を殺した者を」
 自分の喉からついた、声は獣のようであった。何もかもに冷め始めていた。どれだけ国の為、民の為に、奔走しようと、王も民も一様に自分のことばかり。人の醜さに辟易としていたのだ。黒い感情は、とうに産声を上げていたのだ。

(もうどうでもいい。父と母を殺した者を探し出し殺す)

「臨淄と共に死んでやろう」
 田単は紅涙が流れ出るままに、両親をそっと床に寝かし、瞼を閉じた。
 核が鋭利なものに姿を変え、完全に新たな姿に転化しようとしている。
 瞬間。胸の辺りが、熱いくらいに熱を帯びた。

「つっ」
 思わず声が漏れるほどであった。懐には包みがある。
 取り出し、包みを開くと、師から受け継がれ、兄弟子を通して、また持ち主のもとまで戻ってきた、師の駒があった。

「先生―」
 触れた駒は熱を帯びていた。今、まさに人道を踏み外さんとしている、田単を天の師が諫めているようであった。

「君が歩もうとしている路のりは、数多の困難が待ち受けているだろう。だが、艱難かんなんに屈してはいけないよ。君の探し求めている答えは、無限の艱難の先にあるのだから」
 孫師の言葉が、脳裏に蘇る。まるで、眼の前に孫師が本当にいるかのように、鮮明な声だ。

「田単。麒麟の心を持ち続けなさい。たとえ楽毅と運命が相剋することになったとしても、君が君であり続けることで、未来への道が切り拓かれる」視界が淡い光に満ちた。孫師が笑顔で語りかけていた。

「覚悟を決めなさい。君が迷いを断ち斬った時、君はより聡明に強くなれる」
 内にある核の蠢動がむ。丸くもとの形へとおさまっていく。

「先生。道はもう一つしかないのですね」
 問うと、孫師は笑みを殺し、峻厳な眼で田単を見据え頷いた。

「戦いなさい。君を信じてくれる仲間の為に」
 淡い光が鬱金色うつこんいろへと変わる。

「はい」
 と答えた時、鮮烈な光は泡のように弾け消えた。
 訪れた静寂。無残に殺された、両親の屍が二つ並んでいる。

「父上。母上」
 紅涙は無色透明な涙へと変わる。



「田単!」
 呼吸を荒げた、姜施が酸鼻を極めた空間を見遣って、言葉を失った。
 立ち上がり振り向いた、田単の心は凪いでいた。

 姜施は思わず、眼を眇めた。田単の気配が、清廉されている。清らかで、それでいて茫洋としている。
 人間の叡智では、踏み入れることも、到達することも叶わない、大海の底を思わせる。

「お前」
 彼の足許には、腹から血を流した、両親が横たわっている。

(心が毀れたか)
 いや。違う。直ぐに自家撞着じかどうちゃくに陥る。

(毀れたのではない。むしろー。進化している)
 悲劇が田単を変えたのか。何が彼を変えたのだ。凛と佇む田単を前に、姜施は自問自答を繰り返す。

「姜施。僕は覚悟を決めたぞ」

「覚悟―」

「ああ。今すぐ東門に可能な限り兵を集めてくれ。もう道は一つ残されていない」
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