106 / 140
決別
三
しおりを挟む
己という人間を形成していた、核のようなものが、蠢動を起こし、形を変えようとしている。爪先に至るまで、殺意が浸透していく。
「誰だー。誰が」
双眸から零れ落ちるのは、紅き涙。染まっていくのを感じる。憎しみに。核がぼこぼこと音を立てる。
「殺してやる。父と母を殺した者を」
自分の喉からついた、声は獣のようであった。何もかもに冷め始めていた。どれだけ国の為、民の為に、奔走しようと、王も民も一様に自分のことばかり。人の醜さに辟易としていたのだ。黒い感情は、とうに産声を上げていたのだ。
(もうどうでもいい。父と母を殺した者を探し出し殺す)
「臨淄と共に死んでやろう」
田単は紅涙が流れ出るままに、両親をそっと床に寝かし、瞼を閉じた。
核が鋭利なものに姿を変え、完全に新たな姿に転化しようとしている。
瞬間。胸の辺りが、熱いくらいに熱を帯びた。
「つっ」
思わず声が漏れるほどであった。懐には包みがある。
取り出し、包みを開くと、師から受け継がれ、兄弟子を通して、また持ち主のもとまで戻ってきた、師の駒があった。
「先生―」
触れた駒は熱を帯びていた。今、まさに人道を踏み外さんとしている、田単を天の師が諫めているようであった。
「君が歩もうとしている路のりは、数多の困難が待ち受けているだろう。だが、艱難に屈してはいけないよ。君の探し求めている答えは、無限の艱難の先にあるのだから」
孫師の言葉が、脳裏に蘇る。まるで、眼の前に孫師が本当にいるかのように、鮮明な声だ。
「田単。麒麟の心を持ち続けなさい。たとえ楽毅と運命が相剋することになったとしても、君が君であり続けることで、未来への道が切り拓かれる」視界が淡い光に満ちた。孫師が笑顔で語りかけていた。
「覚悟を決めなさい。君が迷いを断ち斬った時、君はより聡明に強くなれる」
内にある核の蠢動が熄む。丸くもとの形へとおさまっていく。
「先生。道はもう一つしかないのですね」
問うと、孫師は笑みを殺し、峻厳な眼で田単を見据え頷いた。
「戦いなさい。君を信じてくれる仲間の為に」
淡い光が鬱金色へと変わる。
「はい」
と答えた時、鮮烈な光は泡のように弾け消えた。
訪れた静寂。無残に殺された、両親の屍が二つ並んでいる。
「父上。母上」
紅涙は無色透明な涙へと変わる。
「田単!」
呼吸を荒げた、姜施が酸鼻を極めた空間を見遣って、言葉を失った。
立ち上がり振り向いた、田単の心は凪いでいた。
姜施は思わず、眼を眇めた。田単の気配が、清廉されている。清らかで、それでいて茫洋としている。
人間の叡智では、踏み入れることも、到達することも叶わない、大海の底を思わせる。
「お前」
彼の足許には、腹から血を流した、両親が横たわっている。
(心が毀れたか)
いや。違う。直ぐに自家撞着に陥る。
(毀れたのではない。むしろー。進化している)
悲劇が田単を変えたのか。何が彼を変えたのだ。凛と佇む田単を前に、姜施は自問自答を繰り返す。
「姜施。僕は覚悟を決めたぞ」
「覚悟―」
「ああ。今すぐ東門に可能な限り兵を集めてくれ。もう道は一つ残されていない」
「誰だー。誰が」
双眸から零れ落ちるのは、紅き涙。染まっていくのを感じる。憎しみに。核がぼこぼこと音を立てる。
「殺してやる。父と母を殺した者を」
自分の喉からついた、声は獣のようであった。何もかもに冷め始めていた。どれだけ国の為、民の為に、奔走しようと、王も民も一様に自分のことばかり。人の醜さに辟易としていたのだ。黒い感情は、とうに産声を上げていたのだ。
(もうどうでもいい。父と母を殺した者を探し出し殺す)
「臨淄と共に死んでやろう」
田単は紅涙が流れ出るままに、両親をそっと床に寝かし、瞼を閉じた。
核が鋭利なものに姿を変え、完全に新たな姿に転化しようとしている。
瞬間。胸の辺りが、熱いくらいに熱を帯びた。
「つっ」
思わず声が漏れるほどであった。懐には包みがある。
取り出し、包みを開くと、師から受け継がれ、兄弟子を通して、また持ち主のもとまで戻ってきた、師の駒があった。
「先生―」
触れた駒は熱を帯びていた。今、まさに人道を踏み外さんとしている、田単を天の師が諫めているようであった。
「君が歩もうとしている路のりは、数多の困難が待ち受けているだろう。だが、艱難に屈してはいけないよ。君の探し求めている答えは、無限の艱難の先にあるのだから」
孫師の言葉が、脳裏に蘇る。まるで、眼の前に孫師が本当にいるかのように、鮮明な声だ。
「田単。麒麟の心を持ち続けなさい。たとえ楽毅と運命が相剋することになったとしても、君が君であり続けることで、未来への道が切り拓かれる」視界が淡い光に満ちた。孫師が笑顔で語りかけていた。
「覚悟を決めなさい。君が迷いを断ち斬った時、君はより聡明に強くなれる」
内にある核の蠢動が熄む。丸くもとの形へとおさまっていく。
「先生。道はもう一つしかないのですね」
問うと、孫師は笑みを殺し、峻厳な眼で田単を見据え頷いた。
「戦いなさい。君を信じてくれる仲間の為に」
淡い光が鬱金色へと変わる。
「はい」
と答えた時、鮮烈な光は泡のように弾け消えた。
訪れた静寂。無残に殺された、両親の屍が二つ並んでいる。
「父上。母上」
紅涙は無色透明な涙へと変わる。
「田単!」
呼吸を荒げた、姜施が酸鼻を極めた空間を見遣って、言葉を失った。
立ち上がり振り向いた、田単の心は凪いでいた。
姜施は思わず、眼を眇めた。田単の気配が、清廉されている。清らかで、それでいて茫洋としている。
人間の叡智では、踏み入れることも、到達することも叶わない、大海の底を思わせる。
「お前」
彼の足許には、腹から血を流した、両親が横たわっている。
(心が毀れたか)
いや。違う。直ぐに自家撞着に陥る。
(毀れたのではない。むしろー。進化している)
悲劇が田単を変えたのか。何が彼を変えたのだ。凛と佇む田単を前に、姜施は自問自答を繰り返す。
「姜施。僕は覚悟を決めたぞ」
「覚悟―」
「ああ。今すぐ東門に可能な限り兵を集めてくれ。もう道は一つ残されていない」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
14
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる