楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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決別

 二

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 姜施が後を追いかけていることに、気が付いてはいたが、構いもせず、腕と足をひたすらに動かし続けた。
 南の区域だけではない。臨淄全体が殺伐としていた。 酒場がある、北区の市場通りでは、人が群れを成し、兵士と市民が徒党を組み、一発触発の雰囲気で互い罵声を浴びせあっている。また、王宮に近い北の区域には、高官達や公族の邸宅が軒を連ねており、門闕の前に市民が群がっている。

「おい!倉を解放しろ!」
「まだ蓄えがあるはずだろ!」
 腕を振るい、喚き立てる男達を、衛兵達が大楯で防いでいる。

 高官達が倉を閉じ、配給が止まったのだ。高官達や公族達は、斉王が東へ逃れる手筈を整えていることを何処かで知ったのだろう。自分達も倉を閉じ、荷を纏めて、王と共に東へ逃げるつもりでいる。駆けながら、田単は自分の思慮の浅さを責難し続けた。

(呂礼に気を配っておくべきだった)
 失念では済まされない。涙と洟水はなみずがこもごもと流れる。近いうちに斉の民は、斉王の動向を知ることになる。そうなれば、不満が最高潮に達した市民は、暴徒と化し、身内同士で僅かな食糧を奪い合うことになる。
 
 斉王の逃亡が現実となれば、楽毅は連合軍の総意として、軍を進めなくてはならない。内側から瓦解し、外側から侵略されれば、臨淄は文字通り、火の海に沈む。

「くそ!」
 南区に入った。既に斉王の動向を知った、市民が鍬や鋤を手に、役所の倉を襲撃している。
 
 厚い雲が垂れた灰色の空に、黒煙と喧噪が立ち昇っていく。仲通りは血気に逸った、市民で一歩通行の流れができていた。流れに逆らうように、人の波に割って入る。
 皆が一様に、異常な昂奮状態にあった。まるで蚩尤しゆうに憑かれたように、赤く充血した眼を見開いている。

「邪魔だ!」
 田単は肘打ちを幾度も、顔に食らいながら、人の波を脱した。
 
 仲通りを右に。その細い路地には、質素な家屋が並んでいる。幾つかの家屋の戸が、破壊されていた。項に寒気が走った。路地の奥が、田単の実家だった。見慣れた板戸は地に倒れ、何度も踏みつけられたのか、砕け散っている。

「父上!母上!」
 悲鳴を上げて、家に飛び込んだ。堂間に血が拡がっていた。血腥い臭気が充満している。
 覚束ない足取りで、堂間に上がり、奥の室へと踏み入れた。
 荒らされた室内で、父と母は抱き合うように倒れていた。
 二人の腹から、紅の血が流れ出し、堂間に伝っている。

「そんな」
 腹から突き上げてくるものがあった。蹲り嘔吐する。

「父上、母上」
 吐瀉物に塗れながら、二人の遺骸に擦り寄る。抱き上げると、両親のまなじりは見開かれていて、眸には生気が宿っていなかった。

「あぁぁ」
 田単は屍と化した、両親を抱き寄せ慟哭した。
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