楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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麒麟立つ

 四

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 魏竜と入れ替わりで、聊城りょうじょうに派遣した、司馬炎の麾下が幕舎に入ってきた。

「首尾は?」
 兵士は燕軍の総帥を前に、緊張の面持ちで答える。

「はっ。鎮撫を終え、領民も大人しく従っております」

「そうか」
 安堵した。臨淄から凡そ西に四百里の地にある、聊城で西の即墨と莒の機運を肌で感じ取ってか、抑えていたはずの民が蜂起した。
 
 これを鎮圧する為に、派遣したのが、楽毅の右腕である、司馬炎である。一人の将軍としての出陣であり、かなり司馬炎は気負っていた風であったが、無事に叛乱を鎮圧できたようだ。聊城に限らず、これから民の蜂起は増えてくるだろう。叛心とは、疫病の如く、伝染するものだと思っている。

「司馬炎には、聊城にて待機するように伝えてくれ。また一帯で蜂起の動きがあれば、独断でかまわぬ。対処するようにと」

「御意」
 切れのある拱手をして、兵士が去っていく。

 やはり、斉の盛り返そうとする力が強くなっている。

(これも田単の力かもしれん)
 左目の傷が酷く疼いた。包帯越しでも、未だ田単から受けた傷は、熱を保ち続けている。これでいい。この痛みが、俺から甘さを消し去ってくる。もう一度、田単と戦場でまみえた時、俺は甘さを捨て、奴を斬らなければならない。

「楽毅!」
 さきほど、退出したばかりの魏竜が血相を変えて、飛び込むように入ってきた。

「何事だ」

「斉王が殺された」

「何だと!」
 楽毅は思わず、眼を皿にする。

「劇辛が莒を奪ったのか?」
 現在、斉王が籠城する莒を攻めたてているのは、劇辛である。劇辛は稀代の軍略家であるが、田達が莒に入り、陣頭指揮を執るようになってからは、攻略に苦心惨憺くしんさんたんとしていた。これまでの情況を鑑みるに、これほど早急に莒が陥とせるとは思えない。
 
 魏竜が首を横に振った。

「違う。楚将淖歯が斉を裏切った」
 楽毅は重く溜まった、唾を嚥下した。戦況が百八十度がらりと変わる、胸中に蟠り続けていた、胸騒ぎはこの椿事ちんじを予感していたのかもしれない。

「莒の情況は」
 思考が停止すること、半呼吸。楽毅はすぐに、上滑りを続ける思考を現実に引き戻した。
 楽毅の平静に導かれるように、魏竜もすっと呼吸を落ち着かせていく。

「淖歯は斉王を弑した後、自らが玉座に居座り、王を号しているようだ」

「ならば、淖歯は楚の容喙ようかいなく、己の意志で斉王を弑したという訳か」
 楚王の胸算用では、淖歯を斉の救援に向かわせ、斉、楚連合で跳梁する燕軍を山東から討ち払った後、見返りとして、奪取した土地の割譲を申し出るつもりだったのだろう。
 しかし、淖歯が欲に駆られ、独断専行に斉王を弑したことで、楚王の見え透いた心算は、烏有うゆうに帰した。

「今、莒は田達率いる斉軍と、淖歯が率いてきた楚軍と衝突を繰り返しているようだ」

「莒が二つに割れたか」
 絶好の好機である。くしくも、斉は内側から瓦解し始めている。まるで、燕の辿った悲劇をなぞっているようだ。

「楽毅。どうする?」
 魏竜が訊く。楽毅は刹那の間、逡巡した。

(今、俺が動けば確実に莒を抑えることができる。だが、内側で争っている、莒を叩けば、凄まじい数の犠牲者が出る)
 不意に蘇る、焼け果てた臨淄の姿。堆く積まれた、無辜の民の屍。ぎゅっと心の臓を掴まれたように、痛みが走る。己をとりまく、世界が急速に狭まっていくような不快感。
 
 瞬間。包帯の奥で、田単に斬られた傷が、灼けるほどの痛みを放った。
 この痛みこそが、今は己への訓戒。

(余計な甘さは捨てろ。甘さは時として、更なる悲劇をうむ。今は一刻も早く、戦を集結させることに、意識を傾けろ)失った左目の闇の中で、もう一人の自分が語りかけてくる。
 
 太息する。楽毅の隻眼から、迷いが消えた。

「十万を二軍に分ける。五万は莒を包囲する劇辛に合流の後、騒擾に乗じて、偽王淖歯及び田氏の後裔を駆逐させる。残りの五万は俺と共に、即墨へ向かう」
 
 今、長大な戦場において、不敵な火種を有しているのは、王を擁する莒ではない。即墨の田単こそ、生かしておけば、戦況をがらり変える火種そのものである。

「田単を討つぞ」
 
 魏竜は唇を色が失せるほどの力で結び、眼に強い光を湛えて頷いた。
 戦の終焉の時は、刻一刻と近づいていた。


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