楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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麒麟立つ

 五

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 莒で軍を指揮する姜施から、即墨の田単のもとへ封書が届いた。しっかりと封泥ふうでいがなされ、緊急性を嫌なほど感じる。
 
 田単は姜鵬牙と姜音に見守られながら、封泥を取り、書簡を開いた。総身を縦に割るような、衝撃が走り、田単は思わず膝をついた。

「姜施は何と」
 己の意志から遊離したかのように、言葉が独りでに口から漏れ出す。

「大王様が身罷みまかられた」
 姜兄妹は開口したまま、時の流れが止まったかのように、その場で硬直している。
 
 姜施の寄越した書簡には、仔細にことの顛末が認められていた。
 斉の救援の為に、莒に入った、楚将の淖歯が、楚王の意に反して、斉王に刃を向けた。 
 淖歯は残忍酷薄な男で、斉王は莒にある鼓里こりにて、斉王を弑した後、斉王の躰から、筋肉の筋を抜き取って、御霊屋みたまやうつばりにかけ、屍を辱めた。
 
 之により、莒内で斉軍と楚軍の戦闘が始まった。姜施は斉兵を纏め、内には楚を外には燕を敵に、苦戦を強いられていた。淖歯は宮廷に籠り、楚兵を指揮しながら、自ら王を号しているという。灼熱の如き憤怒が、立ち上がった時には、総身に満ちていた。事態は絶望的であるといってもいい。だが、心は挫けていない。
 
 激憤が田単の思考の幅を拡張させていた。頭の中が、頂きから千尋の谷を見下ろす風景のように、豁然かつぜんと開いている。

「二人とも姜氏党を総動員してやってもらいたいことがある」
 田単の言葉で、二人は硬直の呪術が解けたかのように、時を取り戻した。

「何をすればいい」
 流石は姜鵬牙だ。すでに狼狽の気配は消えている。

「淖歯は王の血胤を駆逐する為、すでに動き始めているはずだ。正直、もう手遅れかもしれない。それでも莒の地で、生き残った公子が存在しないか探ってもらいたい。直系の血胤が途絶えれば、本当の意味で斉は終わる」
 
 可能性の低い賭けだ。斉王の弑逆を当初より、淖歯が画策していたのならば、公子達の所在をあますことなく把握し、実行と共に、公子も抹殺されていることだろう。
 しかし、公子の数は軽く二十を超える。一人でも身の隠し方を知っている、機転の利く公子が存在すれば、可能性は零ではない。

「お前は?」

「私はこの地で、楽毅殿を迎え撃つ」

「楽毅は本気であんたを討ちに来るわよ」
 姜音は険しさを保ったままの顔で告げた。

「分かっている」
 即墨を包囲する、郭彪の軍は五万。
 恐らく楽毅は、十万の中軍を二軍に分け、莒と即墨へと向かわせることだろう。そして、楽毅は五万を率いて、十中八九、即墨へ来る。即墨に残る兵はたったの七千を率いて、神将楽毅率いる燕の大軍勢と戦わなくてはならない。無言のまま、暫くの間、田単と姜音は見つめ合った。

「大丈夫。そう容易く即墨を陥とさせはしない。たとえ七千の余りの兵であっても、ここの者達は皆、逆境にあっても国を捨てず、守り抜いてきたも猛者達ばかりだ」田単は気丈に笑った。

「お前に楽毅を討つ覚悟はあるのか?」
 姜鵬牙の問いに、田単は小さく頷いた。

「兄弟子の楽毅殿は、偶然旅で出逢った、私にすこぶる良くしてくれた。勿論、その頃は互いに同じ師を持つ兄弟弟子であるとは思いもしなかった、
姜鵬牙。私を酷い男だと思うか?彼は敵でありながら、我が民を想い、犠牲を最小限の抑える為、身を削って、尽力してくれた。だが、私は袂が別れると、躊躇なく、彼を斬った。そして、今の私には、どのような手を遣っても、彼を討つ覚悟がある」

 姜鵬牙は「いいや」と頭を振った。

「俺達に選択肢は残されていない。燕の総大将である、楽毅を討つ以外に、斉が存続できる道はない。きっと楽毅も、それを分かっている。あの男はそういう男だ」
 田単は初めて会った時の、楽毅の哀しみに満ちた眸を想い起こした。全ての者の死に、平等に悲しみを覚えることができる、清廉なる男であるからこそ、彼は困難な道を歩むことになる。

(楽毅殿。あなたは戦人としては、あまりにも優しすぎるのかもしれない)
 皮肉なことに彼の優しさが、天性の将器を十全に生かすことを邪魔している。
 己の内にあった、甘さは斉王が臨淄を見限った時に捨て去った。両親を殺され、兄弟子と袂を分かってから、田単の内に纏わりついていた、人として男としての青臭さが消えた。自分でも驚くほどに、物事を淡泊に捉え、時には酷薄にもなれる。今はこちらの方が、本来の自分という気がする。大切な者を守る為ならば、非情にもなれる。


(麒麟の心か)
 孫師は、よく田単を麒麟の心を持つ若者と称してくれた。身に馴染み、分不相応な気もしたが、田単はその言葉を気に入っていた。幻獣である麒麟を身近なものとして、密かに想っていたものだ。
 
 だが、今は仁愛の獣が酷く遠い存在のものと思える。
 心にはうろが穿たれている。麒麟がいた場所だ。洞の奥には虚無がある。
 田単は麒麟のいた場所に、想いを馳せるように、ぎゅっと自分の胸を掴んだ。
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