楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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麒麟立つ

 六

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 楽毅は即墨を包囲する、郭彪の五万と合流を果たした。陣営に入り、即墨から天へと立ち昇る、気炎を見遣る。

(なるほど。よくもまぁ、籠城戦において、これほどの鋭気を保ち続けていられるものだ)
 籠城の日々は、兵の心をやすりのように摺り削っていくものだ。ましてや、即墨には救援のあてもない。ただ備蓄を消費し、周囲を燕軍の大軍勢が周壁のように包囲している。大将である、田単が毅然としているからこそ、即墨の兵も鋭気を保ち続けることができる。

(良い将校だな。お前は)
 今もなお、田単は指令室でどんと腰を据えて、此方の出方を窺っているに違いない。

「ならば、肝の太さの勝負といこうか」
 正直、莒が荒れている今、一気呵成に即墨へ攻め込み、数の力で押し込み、勝負を早々に決したい所である。しかし、あれほど腰の据わった軍が、相手となると、敵が寡兵であっても、容易に崩すことはできない。力押しを敢行すれば、此方にも甚大な被害が出る。
 
 それほどに、敵が放つ気魄は、張り詰めたものであった。むしろ、大胆不敵に誘っている風もある。楽毅は一拍の間、失った左目の痛みに意識を傾けた。この痛みが、自分の甘さが齎したものを思い出させてくれる。

「郭彪。包囲網を昼夜問わず弛めるな。包囲一里をうろつく、胡乱な者は捕縛し、怪しいと判断すれば、即座に処断せよ」

「御意」
 郭彪の表情は、人形のように動きがない。
 田単が仕掛けた夜襲により、倉を焼かれた失態を、今も恥じ入っているのだろう。

「汚名を雪ぎたくば、今、俺が伝えたことを徹底させろ」

「はっ!」
 郭彪は驚くほど、切れのある動きで直立した。楽毅の興味は、郭彪から失せた。
 
 田単は長期戦に持ち込むつもりでいる。だが、長期戦では兵站線を断たれている、即墨側が明らかに不利である。     
 今の田単には、籠城戦を選ぶしか道はないということだろう。以前の己なら、即墨に使者を送り、降伏を促しただろう。
 
 だが、今は違う。つまらぬ情は戦を長引かせるだけだ。本当の意味で、早々に戦を終結させたいのならば、ここで田単を討たねば。瞼を閉じると、長い籠城戦の末、餓えて死んでいく、無辜の民の姿が鮮明に浮かび上がってくる。
 
 楽毅は瞼の裏でちらつく、幻影に敢然と向かい合った。今の楽毅には、一殺多生いっさつたしょうを実行できるだけの、覚悟が備わっている。たとえ贄となるのが、弟弟子であっても。

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