国殤(こくしょう)

松井暁彦

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一章 楚の英雄

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 深更しんこう。突如、陣内に鉦の音が鳴り響いた。

「何事だ!?」
 蒙恬は寝具を払いのけ、従者に命じて直ぐに具足を整えさせると、剣を佩いて幕舎を出た。
 
 陣内を兵士達は大童おおわらわで駆けていた。夜陰に幾つもの松明の火が無軌道に揺れ動いている。
 
 副官が駆け寄って来る。

「敵襲であります。将軍」

「敵襲だと。城父の兵が討って出たのか?」

「いえ。城父に動きはありません。突如、一万ほどの軍が後方に現れたのです」

「何だと」
 一帯の地方軍は片付けていた。それに、今の楚軍には、陥落寸前の城父を救う気概もない。気概があるなら、李信と己が平輿、寝丘を攻め立てた時に、救援を寄越しているはずである。

「敵の指揮官は」

「捕捉できていません。掲げているのは玄旗くろはたのみで」

「分かった。もういい。とにかく、敵の数が一万だと分かっているのなら、焦る必要もない。兵を鎮め、陣を組ませろ。さすれば容易く討ち払える。憂慮すべきは、夜襲に乗じて、城父の軍が討って出ないかだ」

「御意」
 陣の南の方角で、敵との衝突音が聞こえた。

 副官は蒙恬の沈着な顔を見遣って、争闘の方へと向かって行った。 蒙恬は算を乱した、将校を見つけては、的確に指示を送った

「おい。どうなっている!?」
 遅れて李信が蒙恬の元へ。酒精が漂ってくる。相当に呑んでいたようだ。

「夜襲だ」

「何だと?数は」

「一万」
 言うと、李信は鼻で嗤い飛ばした。

「一万とは。たとえ夜襲を仕掛けたとて、たった一万で、この李信の首を奪れるとでも思ったのか。甘くみられたものだ。いいだろう。俺自身で、荊蛮けいばん共を葬り去ってやる。誰か!矛と馬を!」
 声高に叫ぶと、従者が馬を曳き、副官らしき男が、騎乗した李信に矛を手渡した。

「待て。李信!今、警戒すべきは後方の城父だ。お前は此処に残―」
 言い終える前に、武人の血を滾らせた、李信は矛を翻し、馬を駆った。彼の麾下五百騎が後を追う。

「あの莫迦」
 蒙恬はその場で蹈鞴たたらを踏んだ。
 
李信は直情径行な男だが、天賦の才を有した武人だ。全貌は見えないとしても、今の練度の楚軍ならば、精強を誇る、彼の麾下五百騎があれば、容易く討ち払えるだろう。だが、何故今になって、楚は救援を城父に寄越したのか。それもたった一万。本気で制圧された領土を奪い返したいのならば、もっと兵を用意するべきだ。胸を締め付ける、茨の棘は鋭さを増している。

「考えすぎか」
 蒙恬は争闘の気配が迫る、闇を不安が宿る眼で睨み付けた。




 既に敵兵は、陣の南口を破り、陣内に流れ込んできていた。修羅場と化した一帯には、煌々とにわびの明かりに満ち、敵、味方が放つ白刃が絶えることなく、浮かび上がっている。
 
 李信は舌で唇を湿らせた。血が燃えていた。生死のやりとりの狭間に、身を委ねている時が、皮肉にも生を実感させる。肌がひりつくような感覚が何より好きだった。
 
 百雷ひゃくらいにも匹敵するほどの、雄叫びを上げる。並みの兵士はこの咆哮を耳にするだけで、四肢を硬直させる。魂が覇気で震えるのだ。
 
 矛を横に薙いだ。

 五人の首が、刹那にして舞う。李信は麾下五百騎と共に、辺りを蹂躙した。

 屍の山が積み上がっていく。次第に楚軍の攻勢が緩慢になり始める。物足りなさを感じた。

「おい!こんなもんかよ!お前等!」
 瞬間。李信の眼が、騎乗する将校らしき男の姿を捉えた。

 劣勢でありながら、その男の気配は一切乱れていない。猛者だと、瞬時にして悟った。

「ほう。楚にそこそこの奴が残っていたのか」
 李信は他者が放つ気に聡い。野性的な感覚で、相手の器量を推し量ることができる。

「少しは楽しませろよ」
 矛の血潮を払い、馬の肚を蹴った。

 男も馬を駆る。馳せ違う。

 突き出された矛。間合いから、更に伸びてくる。

 いしづちで打ち払う。反転。
 
 受けた手は痺れている。肌にいぼが立った。
 
 矛を回し、また駆ける。三連の突き。全てが同時に放たれているのではと思うほどに、突きには速度が乗っていた。

(良い腕だ。だがなー)
 憤激。矛の刃が、紅蓮の闘志に満ちる。

 裂帛れっぱくの気魄と共に、放った一撃は、男の兜を飛ばした。
 
 結い止めた髪が、はらりと乱れる。額が切れ、滴る血。
 
 そして、男は李信をゆっくりと見据えた。
 
 呼吸が止まった。

「何故、あんたが此処に」
 総身を満たしていた、闘志が潮のように引いていく。ただ茫然とすることしかできない。何故なら、眼の前の男は、本来ここにいるべき男ではないからだ。

(有り得ない。そんな馬鹿な話があるか)
 男の名を口にする直前、蒙恬が指揮を執る、陣の中心部でどよめきが起こった。

 男は不敵に笑っていた。

「罠かー」
 僅かの間、逡巡した。眼の前の男の首を奪るか。蒙恬を救いに行くか。
 
 天秤が揺れる。李信は唇を噛み、馬首を返した。
 
 振り返ると、額に傷を負った男は、迷いのない眼で、去り行く李信の背を刮目していた。

 

 通り過ぎたのは嵐だった。目視で確認できたのは、五百騎程度の小隊。だが、その破壊力は万の騎馬隊に匹敵する。
 
 蒙恬は馬のたてがみにしがみつき、二十ばかりの麾下に守られるようにして、敵五百騎の猛追から逃れる。

 狼顧ろうこする。

 今や燎が争闘によって倒れ、陣は火焔に包まれていた。灼熱の赤気が渦巻く中、後方では黒き旌期せいきを掲げた、漆黒の一団が勢子せこのように追い立ててくる。

 そして、玄旗が下がり、代わりに竜の縫い取りに項の字がある旌旗が掲げられる。項氏の旗を眼にした刹那、胸に蟠り続けていた、不快感の正体が明らかになった。

 隠棲したはずの項燕こうえんは、何処かに身を潜め、獲物を狙う豺狼さいろうの如く、機会を虎視眈々と窺っていた。そして、己は本能で豺狼が放つ、血の臭気を肌で感じ取っていたのだ。

 だが、今理解したとて、現状を打破できるものは何もない。今はただ懸命に、化け物のような一団から逃げ切るしかない。

 陣内は混迷を極めていた。一万の夜襲。そして、楚の英雄項燕が率いる五百騎の出現。後方から吶喊とっかんが聞こえる。恐らく城父の兵士達が討って出たのだろう。これも、当初から示し合わせたものに違いない。

(もうどうにもならん。とにかく陣を抜け、項燕を振りほどく)
 蒙恬は前だけを見据え、両の腕を馬首に回した。

「蒙恬‼」
 前方から五百騎を引き連れた、李信が現れた。彼の双眼が、背後に迫る、項燕の姿を捉える。

「行け!此処は俺が」
 李信は鞍上で、矛を回した。

「すまない」
 擦れ違う。

「死ぬなよ」

「ああ。老い耄れには敗けん。それに、生きてお前に伝えなくてはならないことがある」
 擦れ違い様に、見えた李信の顔は隠しきれない動揺が浮かんでいた。
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