国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

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 「はは。之は壮観じゃのう」
 項燕は喉を震わせて、豪快に笑い声を上げた。
 
 淮水わいすいを背に布陣した楚軍二十万。二里の間隔を空けて、秦軍六十万が布陣している。秦軍の陣は包囲三里に亘り、秦軍の絶大な軍容を目の当りにした、楚兵達からは惧れが窺える。
 
 両軍が布陣する長大な平野には小雨が降っている。一刻もすれば、篠突く雨に変わるだろう。この辺りは、低湿平野であり、夏の今頃は盛んに雨が降る。准水を越え、南に下れば、毎年夏季には至る所で河が氾濫し、洪水が起こる。布陣する一帯も、南ほどではないが、大地が雨を吸い、泥濘へと変わる。
 
 既に馬の脚は、泥濘に囚われている。しかし、項燕麾下の軍馬は、泥濘でも縦横無尽に駆けられるように、特別な調練を課している。圧倒的な兵数はあるが、地の利は此方にある。故に低湿平野を戦場に選んだ。孤軍で戦うことを強いられる、楚軍には野戦を選ぶ道しかない。この地で秦を討ち払えなくては、楚は滅ぶ。今、老いた竜の双肩に、楚の命運がかかっている。

 雲霞の如し、軍勢を一睨みすると、項燕は視線を薙いだ。

「項燕殿。都より続々と兵糧を積んだ船が到着しています」

 麾下が天幕に入った、項燕に報告を寄越した。

「よし。荷を運び終えた船は、全て沈めてしまえ」

「は?」
 麾下は顎を突き出し瞬いた。

「今、なんと?」

「何度も言わせるな。不要になった船は沈めてしまえと言った。熊啓ゆうけいが公卿共の蓄えていた備蓄を取り上げ、此方に回してくれたおかげで、一、二年は戦えるだけの兵糧は確保できた。わしらの役目は、この地を死地と思い定め、死力を尽くすことになる。船など残しておけば、いざという時、兵士達は退路に縋る。わしらが秦に敗れれば、それは国の滅びじゃ」
 
 麾下は項燕の苛烈な言葉に、息を呑んだ。

「生きて帰りたいのなら、眼の前の強大な敵を破るしか道はない。それを兵士達に示さなくてはならん。決死の覚悟で戦い抜く以外には、我等に退路はないのだとな」

「承知しました」

「ならばやれ」

 麾下は蒼白い顔をしていたが、不満を抱いている様子はなかった。

 暫くして、項燕は主だった将校を天幕に集めた。

 左翼五万を率いる熊啓の長子熊烈ゆうれつ。右翼五万を率いる朱方。本隊十万を率いる総大将の項燕の三名が、敷物の上に腰を下ろす。
 
 見遣った朱方は眉を顰め、不服そうに唇を強く結んでいる。

朱方しゅほう。何かわしに言いたいことがあるのではないか」
 一呼吸の間を空けて、

「将軍。私に戦の口火を切らせてもらえませんか?」
 眦を見開いて、朱方は告げた。

「ほう。話を訊こうか」

 熊烈は端座して、静かな眼差しで事の成り行きを見守っている。

 熊烈はまだ二十一歳と若いが、三十歳の朱方と比べても、挙措が落ち着いている。朱方は幾らか血気を残し過ぎている。比較対象である、熊烈が早成しているからこそ、朱方の血気が余計に浮いて視えてしまう。そして、朱方には全身を駆け巡る焦燥と使命感がある。
 
 朱方の父である、朱英しゅえいは春申君が抱える食客の一人であった。春申君の信用も厚く、何千という食客の中でも、汗明かんめいに次いで、主である春申君に近しい男だったと言える。
 
 李園りえんが春申君に、黒い胸算用を抱いて接近したおり、朱英は李園の卑しさを鋭い洞察力で見抜き、李園を近づけさせないように諫めた。だが、諫言は用いられず、春申君は李園の妹を自らの妾とし、子を孕ませた。後に、子を孕んで間もない、李園の妹は、跡継ぎのいない孝烈王こうれつおうの元へ送られることになる。
 
 孝烈王が薨じると、表向きは孝烈王の子とされる、幽王ゆうおうが践祚した。春申君が抱える有象無象の食客の一人から、李園は楚王の外戚として政事を掌握するまでに至った。
 
 その頃、密事を共有する春申君を、李園は疎ましく思い、暗殺を画策する。その時、唯一、李園の危険性を訴え続けていたのが朱英だった。 李園がの暗殺の為雇っていた私兵達に、春申君は棘門きょくもんで暗殺された。朱英は主の暗殺が決行される前夜に、自らに禍いが及ぶのを恐れて、国外へと逃亡した。

「父は死の間際まで、主を見殺しにした、己を責め続けていました」
 突如、朱方が落涙する。

「父は私に言いました。亡き主への恩義に報いる為に、危殆に瀕する楚の力になれと」
 熊烈は静かに眼差しを、朱方に向けたままでいる。
 
 項燕は深く息を吸い、吐いた。

「朱英殿とは私も面識がある。わしも朱英殿も、共に春申君と死ぬことができなかった。故に朱英殿の悔恨も理解できる。そして、朱英殿に想いを託された、お前の気持ちもな」
 
 面を上げた、朱方の顔に喜色が滲む。

「だが、先陣をお前に切らせるか、どうかは別の話じゃ」

「何故です!必ずや戦端を拓き、勝利へと導く飛矢の役割を果たせてみせます」
 朱方は眼を剥き、必死に訴えかけてくる。

「策も弄さず、力押しで肉薄できるほど、王翦は甘くはない。あの男は豺狼さいろうの如く狡猾かつ周到じゃ。恐らく既に、我が陣中に、奴が放った優秀な間者が潜んでいる。そして、朱方―。奴等のお前の出自―。胸に含
んでいるものを全て調べ上げているはずじゃ。王翦はお前の焦燥を必ず利用してくる」

「私は冷静に事を実行する自信があります!」

 顔を棗色に染めて、反駁する朱方の言は信用に値しないものであった。
「くどい!戦とは一個人の感情でするものではない!次に口を開けば、お前を指揮官から外す」
 
 朱方の顔色が棗色から、どす黒く変色していく。
 小刻みに震える朱方は、殺意の籠った眼を、項燕に向けた。項燕は正面から、彼の殺意を受け止める。暫く睨み合いが続き、朱方は具足を激しく鳴らして、退出して行った。

「ふぅ」
 目頭を強く、指の腹で揉む。
 
 早くも陣中に不協和音が生じ始めている。朱方は凡愚ではないことは、調練を通じて理解している。指揮においては卓越したものを持っているし、物怖じしない度胸もある。今は父の遺言に囚われ、冷静さを欠いているだけだ。彼の父を知り、また朱英の想いも理解できる。息子である、彼につまらない死に方はさせたくはない。楚が存続すれば、朱方は軍の中枢を担うだけの将校になれるはずだ。

「英断であると思います。朱方殿に先鋒を委ねれば、彼は死に急いでいたでしょうし」
 熊烈が落ち着き払った声で慰めるように言った。

「若造が。わしを慰めているつもりか」

「私も朱方殿につまらない死に方はしてもらいたくないので」

「ふん、生意気な。わしの苦衷を悟ったような物言いはやめろ」
 突き放すような言い方であるが、己の心中を汲む男が近くにいることに、心底ほっとしている自分がいた。
 
 だが、安堵によって凪いだ胸の隙間に、冷えた感覚が遅々と拡がっていく。

「何か思うことでも?」
 濃い影が差す、項燕の横顔を見遣って、熊烈が訊いた。
 
 生じたのは僅か亀裂。だがー。奴が間者を遣って、朱方の出自や性格を完璧に調べ上げてみれば、この僅かな亀裂は大地を両断するほどの裂け目へと変わりゆくかもしれない。

「熊烈よ。今すぐ哨戒の兵を増やしておいてくれ」

「間者への警戒ですか。充分に警戒はしていますが」

「鼠一匹すら外に逃がさない強固な警備にせよ」

「承知」
 熊烈は若いが拗ねた所のない、素直な男だ。
 
 上官の命に口を挟まず、諾と受け入れる姿勢も気に入っていた。熊烈は立ち上がると、颯爽と自分の持ち場へと戻って行った。

 若者の真っ直ぐに伸びた背を眼で追いながら、既に己は智将王翦の掌の上で転がされているのではないかと、強い不安に駆られた。
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