国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

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 久方ぶりの戦場のどよめきが、王翦の血を滾らせる。宿敵が去ったことで、もう二度と戦場に戻ることはないのだと思っていた。ただ悶々と過去の戦を回顧し、記憶の中に蘇る、宿敵を何万通りとある軍略で斃す。だが、心が晴れたことなど一度もない。己の無聊を慰めているに過ぎず、記憶の中の項燕を斃した後、胸に拡がるのは虚無である。あの虚しさは、恋が成就することのなかった女子を思い描いての自慰行為の後のような虚しさがあった。

 しかし、今は隠居中の悶々とした日々が嘘のように、澄明な心持ちである。空は絶えず鉛色で、うんざりするほどに雨は降り続いてはいる。しかし、王翦の眼には、蒼穹の空が無限に続いているように映っている。
 
 王翦は俄作りの高楼から、陣営を囲む累璧に、攻撃を仕掛けてくる楚軍を睥睨していた。
 指呼しこの間に熊の旗が翻っている。前衛で指揮を執っているのは、昌平君の長子である、熊烈と推測される。その後ろには、十五万ほどが控えていて、中央には楚と項の旗が林立している。
 
 城攻めは苛烈であるが、秦兵は塁璧を盾に巧く凌いでみせている。本来、攻城戦では攻め手は二倍以上の兵力が必要となる。しかし、楚軍には兵力もなく、攻城兵器の類も多くはない。時折、衝車などを持ち出して、塁壁を破ろうと試みてはいるが、塁壁に設置された床土弩と強弓を携えて万を越える弓兵が放つ、驟雨の如く降る矢に阻まれて、立ち往生している。
 
 当時の矢の鏃は合金のもので、民間で大量生産することは難しい。だが、王翦は秦全土の鏃を搔き集め、五百万本を越える矢を既に用意させている為、矢をしむことなく、敵に浴びせ続けることができる。

「やはり、楚は速戦を選びましたか」
 息子の王賁が隣に並ぶ。

「砦を築き、連中に長期戦の構えを見せつけたことで、疑念を植え付けることができた」

「斉の掩護ですか」
 王翦は目笑した。
 
 斉の掩護などない。だが、疑念は絶えず、項燕の胸中に一抹の不安となって蟠り続ける。たとえ、確証のない疑念であったとしても、楚は速戦を強いられる。仮に斉の掩護が欺瞞ではなく、現実のものであったとならば、楚は八十万を越える大軍勢に蹂躙される運命を辿る。

「項燕は朱方に二万を与え、兵站線の分断に派遣したようです。同じく淮水以北に斥候を放ち、斉の動向を探らせているようです」
 くつくつという嗤い声を、王翦は漏らした。
 
 全ては王翦の欺瞞であった。斉の掩護もなければ、数年間に亘る長期戦を敢行できるだけの兵糧もない。兵站線は複雑に張り巡らし、絶えず秦の支配下にある地域から届く手筈にはなっている。しかし、六十万もの兵の腹を充分に満たせるだけの備蓄は、せいぜいもって一年という所だろう。
 
 報告を終えた王賁と入れ替わりで、李信が背後に控えた。

「間断なく攻め立てさせることで、敵に疲労を募らせるのですね。此方は砦に籠り、兵に鋭気を養わさせる」

「伕を以て労を待つ」と言葉少なく、王翦は返した。

「孫子の兵法ですか」
 
 呉王闔閭こうりょに仕えた、兵法家孫子の言葉である。
 味方には充分な休息を与えてうえで、敵の疲労をまち、敵の疲弊が極限に達した時、溜めに溜めた兵士達の戦意と活力を爆発させ勝利を得る。 単純明快な計略であるが、孤立した立場にある、項燕には効果覿面であると云っていい。

「それだけではないという気がする。もっと別の何かを待っておられるのでは?」

「鋭いな、李信。息子にはない、気の聡さがお前にはある」
 褒詞を告げたつもりであるが、李信は表情をぴくりとも動かさない。

「機を待っている」

「機ですか?」
 李信は神妙な顔で訊いた。

「その時は必ず来る。既に亀裂は生じている。そして、機を掴めば、兵の損失少なくして、敵の二十万を剿滅することができる」
 
 突如、壁外の喧噪が熄んだ。楚軍が退いていく。気が付けば、陽が沈みかけている。

「雨がやんだか」
 
 鉛色の空の一部が裂け、紅色の光線が地上に降り注いでいる。まるで、天上から振り下ろされた巨大な刃が、楚の大地に走る血脈を吸い上げているように見える。項燕にとっては不吉な景色であろう。だが、王翦には、神性を感じさせる、厳かな景色に見えた。
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