27 / 39
五章 陥穽
十
しおりを挟む
開戦の鼓鐸の音が、墨を暈したような鈍色の空に吸い込まれていく。大粒の雨が昨晩から降り続き、地はぬかるみ、鬱々と戦場へ向かう兵士達の足をとる。
戎衣を鳴らし、颯爽と馬の背に項燕は騎乗する。馬を並べる、熊烈に目配せを送ると、彼は自身の持ち場へと馬首を向けた。
その時である。北の方角から馬蹄の響きが轟いた。彼我の差は二里。大粒の雨が簾のようになって、視界を遮っている。
熊烈が動きを止め、前方を睨んだ。
(討って出てきたか)
それにしては、馬蹄の音は小さく纏まりがある。せいぜい一万から二万程度である。
項燕は手を挙げ、麾下達に迎撃態勢に入るように命じた。馬蹄の音が近づいてくる。凝視すると、雨の中で翻る楚の旗を認めた。すぐに先頭で馬を駆けさせる、朱方の姿が確認できた。
「朱方だと。何故?」
朱方は秦の兵站線を断たせる為、二万騎を与え、搦め手に回している。
「尋常ではない速度で駆けてきます。何か不測の事態があったのでしょうか」
熊烈は再び、項燕の隣に馬を並べた。
二万騎は大楯を構える、第一陣の前で静止する。朱方が下馬するのが見える。
項燕と熊烈は下馬し、従者に馬の手綱を渡す。朱方を迎える為、整然と隊列を組む、歩兵達の脇を進んでいく 朱方の顔が視認できる位置まで二人は近づいた。泥に塗れた朱方は瞳孔を開き、乱暴に歩兵を押しのける。
「朱方殿。何故、項燕将軍の指示なく帰陣された?何か不測の事態でー」
朱方の手が腰の佩剣に伸びた。
「熊烈‼さがれ!」
項燕は泥濘を蹴った。同時に剣を抜き放つ。しかし、利き腕より反応が僅かに遅れた。
時として半呼吸である。 熊烈の後頭部から剣尖が突き出した。
「熊烈!!!!!」
顔を貫かれた熊烈は、剣が抜かれると、糸が切れた操り人形のように、泥濘に躰を埋めた。
「この裏切り者共め!」
朱方の眼は、狂気に染まっていた。
項燕は愛刀の飛簾を一閃させた。風神の意を冠した絶剣は、朱方が突き出した剣を、両断した。馳せ違う時には、朱方の両腕は肘から下がなく、鮮血を噴き出していた。
「う、腕がー」
膝から崩れ行く朱方は、血の涙を流し、項燕を黒い殺意の籠った眼で睨みつける。
「裏切り者が!者共!この老い耄れを捕えよ!こいつと熊烈は、秦と裏で繋がり、保身の為、国を売り渡そうとしている!」
半狂乱で朱方は、項燕を血が溢れる両肘で指した。
一部始終を目の当りにしていた、周囲の兵士達に激しい動揺が走る。狼狽はさざ波のように、伝播していく。
「売国奴の首を奪れ!」
瞬間。朱方の麾下として与えていた二万の騎兵が、一陣に突っ込んだ。隊列が撓む。
「何をしている!今すぐ売国奴の首をー」
白刃が走り、朱方の首が舞った。鈍い音を立て、朱方の首が地に落ちた時には、混乱は収拾がつかないほどの有様になっていた。
楚兵同士が白刃を交わし、悲鳴と怒号が混ざり合い、混迷を極めている。
「裏切り者め」
一騎が矛を突き出し、項燕に向かって、凄まじい速さで駆けてくる。項燕は無残に、顔を貫かれた、熊烈の遺骸を見下ろしている。
「死ね!裏切り者」
白刃が間近に迫る。
「黙れ」
項燕は眦を吊り上がらせ、肚の底から湧き上がってくる、灼熱の忿怒を騎兵に放った。
紅蓮の武威が、馬の戦意を挫いた。失速。
鞍上で狼狽する兵士の矛先が揺れる。地上の項燕と馬上の兵士が擦れ違う。淡い剣光が煌めく。血の華が空を裂くように走った。兵士の首が舞い、主を失くした馬は、勢いよく泥濘に倒れ込む。
「すまぬ、熊烈。わしは初めから王翦の掌で躍らせていたようだ」
北の方角で軍旅斧鉞が擦れ合う音が反響する。
項燕はやむことのない雨を全身で感じた。辺りの喧噪が間遠になっていく。
「秦が来たぞ」
悲鳴が上がり、楚兵達が背を向けて逃げていく。
もう何もかもどうでもよかった。己は完膚なくまでに、王翦に打ちのめされた。かつては軍神に寵愛されていた。だからこそ、姑息な欺瞞などは、肌の間隔で察知することができた。だが、戦場を放棄し、軍神に見放された今、己に天祐はない。
(此処が死地か)
惨めな死に際である。
(あのまま会稽の地に留まっているべきだったかな)
項燕は灰色の空を仰ぎ、薄く笑った。
年甲斐もなく熊啓が放つ情熱に感化され、己の魂を削り、陋習に囚われた楚を解放しようと藻掻く姿に魅入られた。あの男が築いた国ならば、息子や孫の未来を預けてもいい。そう思ったからこそ、捨てた戦場へ戻ることを決意した。
項燕は顔に張り付いた水滴を払い、刻一刻と迫る、死への行進に敢然と向き合った。
(許せ。熊啓。世を捨てた老骨に、最早、成せることなど何一つなかった)
蜘蛛の子を散らしたように逃げる兵士達の流れに逆らって、項燕は一人、歩みを進めていく。
林立する秦の黒色の旌旗。その狭間で翩翻と翻るは、鳶色の王の旗。
この首はくれてやる。だがー。
「最期くらいは存分に暴れさせろ。王翦!」
戎衣を鳴らし、颯爽と馬の背に項燕は騎乗する。馬を並べる、熊烈に目配せを送ると、彼は自身の持ち場へと馬首を向けた。
その時である。北の方角から馬蹄の響きが轟いた。彼我の差は二里。大粒の雨が簾のようになって、視界を遮っている。
熊烈が動きを止め、前方を睨んだ。
(討って出てきたか)
それにしては、馬蹄の音は小さく纏まりがある。せいぜい一万から二万程度である。
項燕は手を挙げ、麾下達に迎撃態勢に入るように命じた。馬蹄の音が近づいてくる。凝視すると、雨の中で翻る楚の旗を認めた。すぐに先頭で馬を駆けさせる、朱方の姿が確認できた。
「朱方だと。何故?」
朱方は秦の兵站線を断たせる為、二万騎を与え、搦め手に回している。
「尋常ではない速度で駆けてきます。何か不測の事態があったのでしょうか」
熊烈は再び、項燕の隣に馬を並べた。
二万騎は大楯を構える、第一陣の前で静止する。朱方が下馬するのが見える。
項燕と熊烈は下馬し、従者に馬の手綱を渡す。朱方を迎える為、整然と隊列を組む、歩兵達の脇を進んでいく 朱方の顔が視認できる位置まで二人は近づいた。泥に塗れた朱方は瞳孔を開き、乱暴に歩兵を押しのける。
「朱方殿。何故、項燕将軍の指示なく帰陣された?何か不測の事態でー」
朱方の手が腰の佩剣に伸びた。
「熊烈‼さがれ!」
項燕は泥濘を蹴った。同時に剣を抜き放つ。しかし、利き腕より反応が僅かに遅れた。
時として半呼吸である。 熊烈の後頭部から剣尖が突き出した。
「熊烈!!!!!」
顔を貫かれた熊烈は、剣が抜かれると、糸が切れた操り人形のように、泥濘に躰を埋めた。
「この裏切り者共め!」
朱方の眼は、狂気に染まっていた。
項燕は愛刀の飛簾を一閃させた。風神の意を冠した絶剣は、朱方が突き出した剣を、両断した。馳せ違う時には、朱方の両腕は肘から下がなく、鮮血を噴き出していた。
「う、腕がー」
膝から崩れ行く朱方は、血の涙を流し、項燕を黒い殺意の籠った眼で睨みつける。
「裏切り者が!者共!この老い耄れを捕えよ!こいつと熊烈は、秦と裏で繋がり、保身の為、国を売り渡そうとしている!」
半狂乱で朱方は、項燕を血が溢れる両肘で指した。
一部始終を目の当りにしていた、周囲の兵士達に激しい動揺が走る。狼狽はさざ波のように、伝播していく。
「売国奴の首を奪れ!」
瞬間。朱方の麾下として与えていた二万の騎兵が、一陣に突っ込んだ。隊列が撓む。
「何をしている!今すぐ売国奴の首をー」
白刃が走り、朱方の首が舞った。鈍い音を立て、朱方の首が地に落ちた時には、混乱は収拾がつかないほどの有様になっていた。
楚兵同士が白刃を交わし、悲鳴と怒号が混ざり合い、混迷を極めている。
「裏切り者め」
一騎が矛を突き出し、項燕に向かって、凄まじい速さで駆けてくる。項燕は無残に、顔を貫かれた、熊烈の遺骸を見下ろしている。
「死ね!裏切り者」
白刃が間近に迫る。
「黙れ」
項燕は眦を吊り上がらせ、肚の底から湧き上がってくる、灼熱の忿怒を騎兵に放った。
紅蓮の武威が、馬の戦意を挫いた。失速。
鞍上で狼狽する兵士の矛先が揺れる。地上の項燕と馬上の兵士が擦れ違う。淡い剣光が煌めく。血の華が空を裂くように走った。兵士の首が舞い、主を失くした馬は、勢いよく泥濘に倒れ込む。
「すまぬ、熊烈。わしは初めから王翦の掌で躍らせていたようだ」
北の方角で軍旅斧鉞が擦れ合う音が反響する。
項燕はやむことのない雨を全身で感じた。辺りの喧噪が間遠になっていく。
「秦が来たぞ」
悲鳴が上がり、楚兵達が背を向けて逃げていく。
もう何もかもどうでもよかった。己は完膚なくまでに、王翦に打ちのめされた。かつては軍神に寵愛されていた。だからこそ、姑息な欺瞞などは、肌の間隔で察知することができた。だが、戦場を放棄し、軍神に見放された今、己に天祐はない。
(此処が死地か)
惨めな死に際である。
(あのまま会稽の地に留まっているべきだったかな)
項燕は灰色の空を仰ぎ、薄く笑った。
年甲斐もなく熊啓が放つ情熱に感化され、己の魂を削り、陋習に囚われた楚を解放しようと藻掻く姿に魅入られた。あの男が築いた国ならば、息子や孫の未来を預けてもいい。そう思ったからこそ、捨てた戦場へ戻ることを決意した。
項燕は顔に張り付いた水滴を払い、刻一刻と迫る、死への行進に敢然と向き合った。
(許せ。熊啓。世を捨てた老骨に、最早、成せることなど何一つなかった)
蜘蛛の子を散らしたように逃げる兵士達の流れに逆らって、項燕は一人、歩みを進めていく。
林立する秦の黒色の旌旗。その狭間で翩翻と翻るは、鳶色の王の旗。
この首はくれてやる。だがー。
「最期くらいは存分に暴れさせろ。王翦!」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる