国殤(こくしょう)

松井暁彦

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七章 珠玉の疵

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 蘄は包囲三里の小さな城郭であった。熊啓は愚かにも、王を僭称し、包囲三里の小城を本拠とした。

 黒華こっかが寄越した情報では、五万の義勇兵が合流を果たしたようだ。想定より数は多かったものの、所詮は烏合うごうの衆に過ぎない。中にはまともに武器を持ったことのない農民なども含まれている。
 
 熊啓は兵を城外に出さず、籠城の構えを見せている。抑圧された民の蹶起をあてにしているのか。だとすれば、余りも愚かではないか。

「よほど昌平君は追い詰められているようだな」
 二十万を率いる王翦は、小城に亀のように籠る敵を見遣り言った。
 
 地方の蜂起は、将校達に潰させてはいる。完全に潰しきるのは不可能にしても、熊啓率いる本隊との合流を阻めればいい。現状、成果は出ているといえる。

「重畳」
 王翦はごちる。手を伸ばせば届く距離に、完璧な幕引きがある。

「どのように攻めるおつもりで?」
 隣に馬を並べた、李信が訊いた。

「糧道もなく、孤城に過ぎない。ならば答えは一つしかあるまい」
 王翦は得意の鼻をうごめかせた。

「敵が立ち枯れるのを待つ」

「その通りだ」
 満足げに唸る王翦に対して、李信は眉を顰めている。

「昌平君は何かを待っているのではないでしょうか?」

「何かを待っている?」
 
 王翦は李信に苛立ちを募らせた。この所、豪快奔放であった、李信が嫌に神経質になっている。項燕の一撃で性根まで断たれたのか。王翦が無知な若者を諫めることがあっても、膂力頼みの浅薄な若者が、千軍万馬の己を諫めることなどあってはならないのである。

「その何かとは?」

 王翦は剣呑な空気を漂わせた。何処かで役に立つと思い、従軍させた李信も、今や眼の前を飛び回る蠅の如く目障りだ。
 
 李信は何かを言いかけたが、王翦の顔色を一瞥し、口を閉ざした。

「もう口を挟むな」
 王翦は冷たく突き放すように告げた。
 
 きな臭さを感じる。それは筆舌で語ることは難しく、肌で感じるものだった。全身に痛痒が走っている。王翦の采配には穴はない。だが、戦は生き物だと、己は知っている。戦に絶対などなく、戦は水の如く、無限にかたちを変える。

 数多の死線を潜り抜けてきた王翦が知らぬはずのない事実である。だが、項燕に対する不断の執着が、宿敵の死によって終焉を迎え、緊迫感が弛緩しているように見える。現に王翦には眼の前の敵に対する、侮りが窺える。李信が知る、王翦は必要以上に用心深く慎重であった。
 
 しかし、今はどうだろうか。何処か浮ついた所があり、老獪さが失われている。大将の士気というものは、末端の兵に至るまで伝播する。項燕と戦う以前の兵士達は、鋭気を養っていたこともあって、士気が漲っていたが、今は散漫である。
 
 李信はこの上ない危機感を覚えていた。しかし、諫めた所で、王翦は耳を貸すまい。
 
 長嘆息と共に、故郷から遥か東に離れた空を見上げる。戦雲が漲っている。巨きな雲気が、竜を象っているように思える。

「黒き竜は生きているのか」

 天に向けた問いかけは、虚しく雲と共に流されて行った。

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