35 / 39
七章 珠玉の疵
三
しおりを挟む
蘄は包囲三里の小さな城郭であった。熊啓は愚かにも、王を僭称し、包囲三里の小城を本拠とした。
黒華が寄越した情報では、五万の義勇兵が合流を果たしたようだ。想定より数は多かったものの、所詮は烏合の衆に過ぎない。中にはまともに武器を持ったことのない農民なども含まれている。
熊啓は兵を城外に出さず、籠城の構えを見せている。抑圧された民の蹶起をあてにしているのか。だとすれば、余りも愚かではないか。
「よほど昌平君は追い詰められているようだな」
二十万を率いる王翦は、小城に亀のように籠る敵を見遣り言った。
地方の蜂起は、将校達に潰させてはいる。完全に潰しきるのは不可能にしても、熊啓率いる本隊との合流を阻めればいい。現状、成果は出ているといえる。
「重畳」
王翦はごちる。手を伸ばせば届く距離に、完璧な幕引きがある。
「どのように攻めるおつもりで?」
隣に馬を並べた、李信が訊いた。
「糧道もなく、孤城に過ぎない。ならば答えは一つしかあるまい」
王翦は得意の鼻をうごめかせた。
「敵が立ち枯れるのを待つ」
「その通りだ」
満足げに唸る王翦に対して、李信は眉を顰めている。
「昌平君は何かを待っているのではないでしょうか?」
「何かを待っている?」
王翦は李信に苛立ちを募らせた。この所、豪快奔放であった、李信が嫌に神経質になっている。項燕の一撃で性根まで断たれたのか。王翦が無知な若者を諫めることがあっても、膂力頼みの浅薄な若者が、千軍万馬の己を諫めることなどあってはならないのである。
「その何かとは?」
王翦は剣呑な空気を漂わせた。何処かで役に立つと思い、従軍させた李信も、今や眼の前を飛び回る蠅の如く目障りだ。
李信は何かを言いかけたが、王翦の顔色を一瞥し、口を閉ざした。
「もう口を挟むな」
王翦は冷たく突き放すように告げた。
きな臭さを感じる。それは筆舌で語ることは難しく、肌で感じるものだった。全身に痛痒が走っている。王翦の采配には穴はない。だが、戦は生き物だと、己は知っている。戦に絶対などなく、戦は水の如く、無限に象を変える。
数多の死線を潜り抜けてきた王翦が知らぬはずのない事実である。だが、項燕に対する不断の執着が、宿敵の死によって終焉を迎え、緊迫感が弛緩しているように見える。現に王翦には眼の前の敵に対する、侮りが窺える。李信が知る、王翦は必要以上に用心深く慎重であった。
しかし、今はどうだろうか。何処か浮ついた所があり、老獪さが失われている。大将の士気というものは、末端の兵に至るまで伝播する。項燕と戦う以前の兵士達は、鋭気を養っていたこともあって、士気が漲っていたが、今は散漫である。
李信はこの上ない危機感を覚えていた。しかし、諫めた所で、王翦は耳を貸すまい。
長嘆息と共に、故郷から遥か東に離れた空を見上げる。戦雲が漲っている。巨きな雲気が、竜を象っているように思える。
「黒き竜は生きているのか」
天に向けた問いかけは、虚しく雲と共に流されて行った。
黒華が寄越した情報では、五万の義勇兵が合流を果たしたようだ。想定より数は多かったものの、所詮は烏合の衆に過ぎない。中にはまともに武器を持ったことのない農民なども含まれている。
熊啓は兵を城外に出さず、籠城の構えを見せている。抑圧された民の蹶起をあてにしているのか。だとすれば、余りも愚かではないか。
「よほど昌平君は追い詰められているようだな」
二十万を率いる王翦は、小城に亀のように籠る敵を見遣り言った。
地方の蜂起は、将校達に潰させてはいる。完全に潰しきるのは不可能にしても、熊啓率いる本隊との合流を阻めればいい。現状、成果は出ているといえる。
「重畳」
王翦はごちる。手を伸ばせば届く距離に、完璧な幕引きがある。
「どのように攻めるおつもりで?」
隣に馬を並べた、李信が訊いた。
「糧道もなく、孤城に過ぎない。ならば答えは一つしかあるまい」
王翦は得意の鼻をうごめかせた。
「敵が立ち枯れるのを待つ」
「その通りだ」
満足げに唸る王翦に対して、李信は眉を顰めている。
「昌平君は何かを待っているのではないでしょうか?」
「何かを待っている?」
王翦は李信に苛立ちを募らせた。この所、豪快奔放であった、李信が嫌に神経質になっている。項燕の一撃で性根まで断たれたのか。王翦が無知な若者を諫めることがあっても、膂力頼みの浅薄な若者が、千軍万馬の己を諫めることなどあってはならないのである。
「その何かとは?」
王翦は剣呑な空気を漂わせた。何処かで役に立つと思い、従軍させた李信も、今や眼の前を飛び回る蠅の如く目障りだ。
李信は何かを言いかけたが、王翦の顔色を一瞥し、口を閉ざした。
「もう口を挟むな」
王翦は冷たく突き放すように告げた。
きな臭さを感じる。それは筆舌で語ることは難しく、肌で感じるものだった。全身に痛痒が走っている。王翦の采配には穴はない。だが、戦は生き物だと、己は知っている。戦に絶対などなく、戦は水の如く、無限に象を変える。
数多の死線を潜り抜けてきた王翦が知らぬはずのない事実である。だが、項燕に対する不断の執着が、宿敵の死によって終焉を迎え、緊迫感が弛緩しているように見える。現に王翦には眼の前の敵に対する、侮りが窺える。李信が知る、王翦は必要以上に用心深く慎重であった。
しかし、今はどうだろうか。何処か浮ついた所があり、老獪さが失われている。大将の士気というものは、末端の兵に至るまで伝播する。項燕と戦う以前の兵士達は、鋭気を養っていたこともあって、士気が漲っていたが、今は散漫である。
李信はこの上ない危機感を覚えていた。しかし、諫めた所で、王翦は耳を貸すまい。
長嘆息と共に、故郷から遥か東に離れた空を見上げる。戦雲が漲っている。巨きな雲気が、竜を象っているように思える。
「黒き竜は生きているのか」
天に向けた問いかけは、虚しく雲と共に流されて行った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる