国殤(こくしょう)

松井暁彦

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終章

李信

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 李信りしんは軍を脱け、寿春じゅしゅんから独り、東へと向かった。
 
 都は陥落し、王を僭称した熊啓ゆうけい、大司馬であった項燕が討たれたことで、楚は遂に滅びた。
 
 あと数か月もすれば、咸陽かんようから地方に高官達が派遣され、楚の民は厳罰な法律によって教化されることだろう。布衣の身となった李信は、今、会稽かいけいに向かっている。何故かと問われれば、明確な理由は自分でも分からない。ただ、何かに導かれるように、足が東へ向いていくのだ。
 
 李信は旅塵りょじんに塗れながら、幾度もある歌を耳にした。

 国を守る為、逝った兵士達への鎮魂歌である。そして、今も街道で数十人の擦れ違う人々が、その歌を口ずさむ。
 
 
 が陣を凌ぎ、余がこう
 左驂ささん たおれ、 みぎ 刃傷じんしょう
 両輪をうずめ、四馬しばを繋ぎ
 玉袍ぎょくほうりて、鳴鼓めいこを撃つ
 天時てんじ ち、威霊いれい 怒り
 厳しく殺され尽くされ、原壄げんやてられる
 でてらず、くてかえらず
 平原にわすれられて、みち超遠ちょうへん
 長剣をたいし、楚弓をたばさ
 首身しゅしん はなるれど、心にりず
 誠に既に勇にして、又た以ってたけ
 つお剛強ごうきゅうにして、凌ぐらず
 身 既に死して、神 以って霊に
 きみの魂魄 ゆうと為る

 敵は我が陣営を圧倒し、我が兵士を踏みつけにし
 左の副え馬は倒れ、右の馬も傷ついた
 馬車の両輪を土に埋め、四頭の馬を繋ぎとめて
 玉で飾った袍を手に、攻撃合図の太鼓を打つ鳴らす
 天の時は我々を見捨て、峻厳な神々も我々に怒りを向け
 厳しくも味方は壊滅して、死体は原野に棄てられたままとなった
 家を出たがもどることはなく、行ったまま、帰ることがない
 広い野辺に遺棄されて、故郷への道ははるかに遠い
 長剣を腰にして、楚の弓をたばさんで
 首と身とがところを異にしたが、心に悔いることはない
 まことに勇敢であり、くわえて武略に優れ
 最後まで頑強に抵抗して、屈服させることができなかった
 肉体は死んだが、その精神は超越的な力を具有し
 国殤こくしょうの魂魄は、死者達の頭目となられた

 

 東へと向かう旅路の最中、李信は亡国の民の口から、何度もこの歌を聴いた。その度に、頬に一筋の涙が伝う。
 今や亡国の民となった彼等は、項燕という蓋世がいせいの英雄を心から愛していた。そして、己も敵でありながら、項燕の生き様に心を動かされた。

 李信は涙を拭い、立ち止まる。
 砕かれ、未だ吊ったままの不格好な右腕を眺める。これから何十年と生きていくなかで、この腕が元に戻ることはないだろう。

 だが、李信は胸を張って答えることができる。亡き英雄から受けた、誇り高ききずであると。
 
 李信は穏やか笑みを刷き、新時代への一歩を踏み出した。
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