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澱み
十二
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(化け物だ)
王翦は馬の背からずれ落ちるような恰好で地上へと降り立つ。昨日に穣を出発し、大きな城邑を避け南へ迂回すること三百里余り。
昨日は三刻ほどの小休憩を幾つか挟んだだけで、一万に騎馬隊はひたすらに駆け続けている。その小休憩も本来、騎手の休息を主にしたものではなく、あくまで馬の休息が主なものである。馬が潰れては元も子もないので、馬の面倒で時間を殆ど浪費する。
「大丈夫か?」
休息地。突き出た岩を背凭れに、疲労で項垂れる王翦の顔を義父の王齕が覗きこむ。
「あ、はい」
疲労は色濃く、うまく愛想笑いを浮かべられているかも定かではない。
「ほれ」
差し出されたのは干し肉。
「有難うございます」
干し肉を口に入れたが、最早腹が減っているのかも分からない。感じるのは津波のように押し寄せてくる眠気だけである。
「無理して付いてくる必要はなかったんだぞ」
隣に腰を下ろした、義父の顔にはまだ十分な余力がある。また溌剌としているのは義父だけでなく、王翦を除く天狼隊の隊員全員がせっせと馬の世話などを焼いている。
(やはり化け者だ)と呆れる。
「いえ。あくまで俺が提案した策なので、事の趨勢を見極める責任が俺にはあります」
一万の騎馬隊で先行し、趙・魏の連合軍三十万への奇襲作戦。下手を打てば、全滅する可能性もある。白起には穣に残るように告げられたが、首を縦に振る訳にはいかなかった。あくまで己は白起の従者なのだ。策の立案者としても。従者としても眼の前の艱難から逃げる訳にはいかない。
「真面目な奴だな」
ははと王齕が笑う。
「戦場は初めてだろ?」
「はい」
「怖いか?」
言葉に窮した。戦場の血腥さを知らないせいか、不思議と怖さはない。不意に東郷で友と共に、賊を斬り殺した時の感覚が思い出された。怖くはなかった。むしろ心に火が点いた。
「俺は今でも怖いよ」
「えっ?」
言葉を待つより先に、義父が小さく呟いた。
「意外か?」
「ええ。義父上が恐怖を感じておられるようには見えないので」
穏やかに笑み平然としている。彼の挙動や表情からは、恐怖など微塵も感じない。
「虚勢だよ」
「まさか」
「本当だ。真の意味で懼れを抱いていないのは殿だけさ」
義父の視線を追う。其処には馬に池の水を飲ませる白起の姿があった。
「戦場での殿の姿を目の当りにすれば分かる。あの人は天より降り立った戦神だ。俺達はあの人の光に魅入られ、少しでも近づこうと藻掻く凡人だ。故に虚勢を張り殿に倣う」
「それほどですか」
王翦とて調練時の白起の凄まじさは知っている。だが、調練時では王齕や他の古参の将も完全に押し込めないまでも、相応の力を発揮していると思う。
王翦は常に白起の従者として彼の傍らに控えているが、特に胡傷や王騎と相対した時など、苦戦を強いられているように見えた。率直な感想を語ると、義父はゆっくりと頭を振った。
「あの程度が殿の全力などと思うな。あれは俺達の底力を引き出そうと、あえて手を抜いておられるのだ。殿が全力を出せば、俺達子飼いの将、全員が束になってかかっても、刹那の内に斃されるだろうな」呆然と傾聴する王翦に義父は続ける。
「もうすぐお前にも分かる。今を乗り切れば、お前も群れの一匹として戦うことになるのだからな」
「群れ?」
「ああ。群れだ。俺達は一つの群れなのだ。お前も群れの一体となった時、殿が帯びる神気を体感することになる」
六刻ほど留まる。少し眠っておけ。と告げると義父は愛馬の元へ消えて行った。
「神気―」
その言葉を朦朧とする、意識の中反芻する。神気とは?闘志の言い換えなのだろうか?だが、単純な闘志の言い換えではない気がする。徐々に思考が上滑りを繰り返し、いつの間にか王翦の意識は墜落していた。
王翦は馬の背からずれ落ちるような恰好で地上へと降り立つ。昨日に穣を出発し、大きな城邑を避け南へ迂回すること三百里余り。
昨日は三刻ほどの小休憩を幾つか挟んだだけで、一万に騎馬隊はひたすらに駆け続けている。その小休憩も本来、騎手の休息を主にしたものではなく、あくまで馬の休息が主なものである。馬が潰れては元も子もないので、馬の面倒で時間を殆ど浪費する。
「大丈夫か?」
休息地。突き出た岩を背凭れに、疲労で項垂れる王翦の顔を義父の王齕が覗きこむ。
「あ、はい」
疲労は色濃く、うまく愛想笑いを浮かべられているかも定かではない。
「ほれ」
差し出されたのは干し肉。
「有難うございます」
干し肉を口に入れたが、最早腹が減っているのかも分からない。感じるのは津波のように押し寄せてくる眠気だけである。
「無理して付いてくる必要はなかったんだぞ」
隣に腰を下ろした、義父の顔にはまだ十分な余力がある。また溌剌としているのは義父だけでなく、王翦を除く天狼隊の隊員全員がせっせと馬の世話などを焼いている。
(やはり化け者だ)と呆れる。
「いえ。あくまで俺が提案した策なので、事の趨勢を見極める責任が俺にはあります」
一万の騎馬隊で先行し、趙・魏の連合軍三十万への奇襲作戦。下手を打てば、全滅する可能性もある。白起には穣に残るように告げられたが、首を縦に振る訳にはいかなかった。あくまで己は白起の従者なのだ。策の立案者としても。従者としても眼の前の艱難から逃げる訳にはいかない。
「真面目な奴だな」
ははと王齕が笑う。
「戦場は初めてだろ?」
「はい」
「怖いか?」
言葉に窮した。戦場の血腥さを知らないせいか、不思議と怖さはない。不意に東郷で友と共に、賊を斬り殺した時の感覚が思い出された。怖くはなかった。むしろ心に火が点いた。
「俺は今でも怖いよ」
「えっ?」
言葉を待つより先に、義父が小さく呟いた。
「意外か?」
「ええ。義父上が恐怖を感じておられるようには見えないので」
穏やかに笑み平然としている。彼の挙動や表情からは、恐怖など微塵も感じない。
「虚勢だよ」
「まさか」
「本当だ。真の意味で懼れを抱いていないのは殿だけさ」
義父の視線を追う。其処には馬に池の水を飲ませる白起の姿があった。
「戦場での殿の姿を目の当りにすれば分かる。あの人は天より降り立った戦神だ。俺達はあの人の光に魅入られ、少しでも近づこうと藻掻く凡人だ。故に虚勢を張り殿に倣う」
「それほどですか」
王翦とて調練時の白起の凄まじさは知っている。だが、調練時では王齕や他の古参の将も完全に押し込めないまでも、相応の力を発揮していると思う。
王翦は常に白起の従者として彼の傍らに控えているが、特に胡傷や王騎と相対した時など、苦戦を強いられているように見えた。率直な感想を語ると、義父はゆっくりと頭を振った。
「あの程度が殿の全力などと思うな。あれは俺達の底力を引き出そうと、あえて手を抜いておられるのだ。殿が全力を出せば、俺達子飼いの将、全員が束になってかかっても、刹那の内に斃されるだろうな」呆然と傾聴する王翦に義父は続ける。
「もうすぐお前にも分かる。今を乗り切れば、お前も群れの一匹として戦うことになるのだからな」
「群れ?」
「ああ。群れだ。俺達は一つの群れなのだ。お前も群れの一体となった時、殿が帯びる神気を体感することになる」
六刻ほど留まる。少し眠っておけ。と告げると義父は愛馬の元へ消えて行った。
「神気―」
その言葉を朦朧とする、意識の中反芻する。神気とは?闘志の言い換えなのだろうか?だが、単純な闘志の言い換えではない気がする。徐々に思考が上滑りを繰り返し、いつの間にか王翦の意識は墜落していた。
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