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影王
八
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范雎は生きていた。息はか細いものの意識はある。あばらが折れ、前歯も粉々に砕けているが命はある。
あの二人が盆暗で助かった。ろくに脈も取らず、范雎が死んだと決めつけたのだから。死んだ態を装っていけば、あそこで凄惨な拷問を受け続けるより、生き抜ける希望はある。簀で躰を雁字搦めにされ、厠の傍で放置された今、なんとか館から抜け出す方法を模索しなくてはならない。全身を絶えず激痛が襲うが、思考は冴えていた。
時折、宴に招かれた食客が酩酊状態で厠にやって来ては、「売国奴め」と罵りながら、横たわる范雎に尿を浴びせる。筆舌に尽くしがたいほどの屈辱であった。だが、その屈辱が生への執念を一層に強めることになる。
「ああ。こりゃ酷い。幾らなんでも死んだ人間にここまですることはない」
館の番人が瞼を閉じ、横たわる范雎の前で冥福を祈る。
「おい。あんた」
番人は飛びのいた。その手は剣把にある。
「私を逃がしてくれないか」
「あ、あんた生きてたのか!?」
番人は眼を皿にしている。この男を何としても、此方側に引き入れてなくてはならない。魏斉や須賈に生きていることを知られては、本当に殺されてしまう。今や死を懼れる想いはないが、何としても母を殺し、己に辱めを与えた連中に報復してやりたい。
「頼む。私を逃がしてくれ」
「駄目だ。あんたを逃がしたことが知られれば、俺は罰を受ける」
「もしあんたが私を逃がしてくれれば、必ず恩に報くいる」
涙を流し懇願した。尿に塗れ、傷だらけの男の涙の訴えが、奇跡的にも番人の心を揺さぶった。
「ちっ。分かった。だが、館を抜ける手引きまでだ。あとのことは、自分で何とかするんだな」
「感謝する」
番人は周囲に注意を払い、剣で簀を引き裂いた。
「有難う」
長年仕えた主の館だ。抜け道があるのは知っている。
「何をしでかしたか知らねぇが、あんたは不幸にも宰相に眼を付けられた。誰かを頼って高飛びでもするんだな」
男の声を背で受け、這這の態ながらも、他の番人の眼を潜り抜けて、館の外に出ることに成功した。だが、安心はできない。厠に晒した范雎の屍が無くなっていることに気付けば、魏斉達は血眼で己の行方を捜すだろう。
ここはあの番人の言の通りに、国外でも高飛びするのが賢明なのかもしれない。といっても、范雎に頼るべく手蔓はいない。途方もない絶望感が去来する。それでも足を前に出せるのは、底なしの憎悪が胸中に渦巻いているからである。
路地を路地を隠れように進んでいると、空が白み始めてきた。須賈の館の方角から、どよめきが聞こえる。
「くそ」
懸命に足を前に繰り出して来たが、距離を稼げていないことに絶望した。陽が昇る。だが、空の白みと相対して視界は昏くなっていく。四肢から力が抜ける。慌ただしい鉄器の音。近づいてくる。
「くっ」
絞り出した声。だが虚しくも思考は墜落し、視界は闇に覆われた。
あの二人が盆暗で助かった。ろくに脈も取らず、范雎が死んだと決めつけたのだから。死んだ態を装っていけば、あそこで凄惨な拷問を受け続けるより、生き抜ける希望はある。簀で躰を雁字搦めにされ、厠の傍で放置された今、なんとか館から抜け出す方法を模索しなくてはならない。全身を絶えず激痛が襲うが、思考は冴えていた。
時折、宴に招かれた食客が酩酊状態で厠にやって来ては、「売国奴め」と罵りながら、横たわる范雎に尿を浴びせる。筆舌に尽くしがたいほどの屈辱であった。だが、その屈辱が生への執念を一層に強めることになる。
「ああ。こりゃ酷い。幾らなんでも死んだ人間にここまですることはない」
館の番人が瞼を閉じ、横たわる范雎の前で冥福を祈る。
「おい。あんた」
番人は飛びのいた。その手は剣把にある。
「私を逃がしてくれないか」
「あ、あんた生きてたのか!?」
番人は眼を皿にしている。この男を何としても、此方側に引き入れてなくてはならない。魏斉や須賈に生きていることを知られては、本当に殺されてしまう。今や死を懼れる想いはないが、何としても母を殺し、己に辱めを与えた連中に報復してやりたい。
「頼む。私を逃がしてくれ」
「駄目だ。あんたを逃がしたことが知られれば、俺は罰を受ける」
「もしあんたが私を逃がしてくれれば、必ず恩に報くいる」
涙を流し懇願した。尿に塗れ、傷だらけの男の涙の訴えが、奇跡的にも番人の心を揺さぶった。
「ちっ。分かった。だが、館を抜ける手引きまでだ。あとのことは、自分で何とかするんだな」
「感謝する」
番人は周囲に注意を払い、剣で簀を引き裂いた。
「有難う」
長年仕えた主の館だ。抜け道があるのは知っている。
「何をしでかしたか知らねぇが、あんたは不幸にも宰相に眼を付けられた。誰かを頼って高飛びでもするんだな」
男の声を背で受け、這這の態ながらも、他の番人の眼を潜り抜けて、館の外に出ることに成功した。だが、安心はできない。厠に晒した范雎の屍が無くなっていることに気付けば、魏斉達は血眼で己の行方を捜すだろう。
ここはあの番人の言の通りに、国外でも高飛びするのが賢明なのかもしれない。といっても、范雎に頼るべく手蔓はいない。途方もない絶望感が去来する。それでも足を前に出せるのは、底なしの憎悪が胸中に渦巻いているからである。
路地を路地を隠れように進んでいると、空が白み始めてきた。須賈の館の方角から、どよめきが聞こえる。
「くそ」
懸命に足を前に繰り出して来たが、距離を稼げていないことに絶望した。陽が昇る。だが、空の白みと相対して視界は昏くなっていく。四肢から力が抜ける。慌ただしい鉄器の音。近づいてくる。
「くっ」
絞り出した声。だが虚しくも思考は墜落し、視界は闇に覆われた。
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