白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
238 / 336
影王

 八

しおりを挟む
 范雎は生きていた。息はか細いものの意識はある。あばらが折れ、前歯も粉々に砕けているが命はある。
 
 あの二人が盆暗ぼんくらで助かった。ろくに脈も取らず、范雎が死んだと決めつけたのだから。死んだ態を装っていけば、あそこで凄惨な拷問を受け続けるより、生き抜ける希望はある。簀で躰を雁字搦めにされ、厠の傍で放置された今、なんとか館から抜け出す方法を模索しなくてはならない。全身を絶えず激痛が襲うが、思考は冴えていた。
 
 時折、宴に招かれた食客が酩酊状態で厠にやって来ては、「売国奴め」と罵りながら、横たわる范雎に尿を浴びせる。筆舌に尽くしがたいほどの屈辱であった。だが、その屈辱が生への執念を一層に強めることになる。

「ああ。こりゃ酷い。幾らなんでも死んだ人間にここまですることはない」
 館の番人が瞼を閉じ、横たわる范雎の前で冥福を祈る。

「おい。あんた」
 番人は飛びのいた。その手は剣把にある。

「私を逃がしてくれないか」

「あ、あんた生きてたのか!?」
 番人は眼を皿にしている。この男を何としても、此方側に引き入れてなくてはならない。魏斉や須賈に生きていることを知られては、本当に殺されてしまう。今や死を懼れる想いはないが、何としても母を殺し、己に辱めを与えた連中に報復してやりたい。

「頼む。私を逃がしてくれ」

「駄目だ。あんたを逃がしたことが知られれば、俺は罰を受ける」

「もしあんたが私を逃がしてくれれば、必ず恩に報くいる」
 涙を流し懇願した。尿に塗れ、傷だらけの男の涙の訴えが、奇跡的にも番人の心を揺さぶった。

「ちっ。分かった。だが、館を抜ける手引きまでだ。あとのことは、自分で何とかするんだな」

「感謝する」
 番人は周囲に注意を払い、剣で簀を引き裂いた。

「有難う」
 長年仕えた主の館だ。抜け道があるのは知っている。

「何をしでかしたか知らねぇが、あんたは不幸にも宰相に眼を付けられた。誰かを頼って高飛びでもするんだな」
 男の声を背で受け、這這の態ながらも、他の番人の眼を潜り抜けて、館の外に出ることに成功した。だが、安心はできない。厠に晒した范雎の屍が無くなっていることに気付けば、魏斉達は血眼で己の行方を捜すだろう。

ここはあの番人の言の通りに、国外でも高飛びするのが賢明なのかもしれない。といっても、范雎に頼るべく手蔓はいない。途方もない絶望感が去来する。それでも足を前に出せるのは、底なしの憎悪が胸中に渦巻いているからである。

 路地を路地を隠れように進んでいると、空が白み始めてきた。須賈の館の方角から、どよめきが聞こえる。

「くそ」
 懸命に足を前に繰り出して来たが、距離を稼げていないことに絶望した。陽が昇る。だが、空の白みと相対して視界は昏くなっていく。四肢から力が抜ける。慌ただしい鉄器の音。近づいてくる。

「くっ」
 絞り出した声。だが虚しくも思考は墜落し、視界は闇に覆われた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...